イメージ図式の哲学的意義 (3) 認知的無意識

namdoog2006-12-18

 ジョンソンは、イメージ図式に関してその3つの重要な意義を強調している。
 第一に、イメージ図式は、われわれの身体経験が意味をもつことを可能とする重要な要因である。身体経験の意味とは、われわれの感覚-運動経験の反復する構造とパターンの意味である。その限りにおいて、その意味は意識的なものではなく識閾より下のレベルに横たわっている。この種の意味構造をジョンソンとレイコフは、<認知的無意識>(Cognitive Unconscious)と名づけた(Philosophy in the Flesh, 1999)。
 例えば、何かが入れ物の中にあるとはどういうことか、その意味を人は一般に理解している。この<意味>の少なくとも一部分は、この事態について熟慮したり意識的に考察したりするまでもなく了解されている。(一例をあげよう。何か入れ物(例えば、カバン)を見るという経験や英語の前置詞inを耳にしたり読んだりする経験は、<入れ物>のイメージ図式を賦活する。その結果として、特定の事態――目の前にカバンがあり、その持ち主が”There is wads of money in the bag”と発話すること――の意味が聞き手に直ちに了解されるのである。) 
 第二に、ジョンソンによれば、イメージ図式の構造には<論理>が組み込まれているという。
 この指摘は、筆者の問題関心に直接関係するという意味で看過できない論点を構成している。すなわち、一般に推論の基礎をなすのは、推論を表現する言語の<論理形式>であるとされてきた。ところで、この<論理形式>がいかなる存在論的な身分をもちいかなる様態で存在するかについて、最終的な学説(定説)はまだ確立されていないとはいえ(いつかそうされるのだろうか)、少なくともその表現形式が離散的構造をなす点で多くの論者の見解は一致を見ている。ジョンソンの図式論は、この正統的見解に対する異論として、現在われわれが採りあげて検討するに値するほとんど唯一の仮設にほかならない。
 例えば、誰かがある直線道路を目的地へ移動しているとせよ。T1という時点でその人が目的地までなかばまで進んだとしよう。そのままこの人が時点T2まで前進したとすると、その時点ではT1におけるよりも目的地に近づいているだろう。このような推論ができるのは、<起点-経路-目的地>の図式にそなわる空間的論理のためである。
 第三に、イメージ図式は単なる心的なものでもなく、単なる身体的なものでもなくて、デューイのいう<身心一体>(body-mind)を描き出す輪郭である(Experience and Nature, 1925)という。前回にもこの論点には言及したが、イメージ図式論は、哲学上の身心問題へのひとつの応じ方なのである。換言すれば、ジョンソンはデューイ哲学に影響をこうむりながら、イメージ図式に身体と心の連続性の証しを認めるのである。まず身心を分離しておいて、後からそれらの<結合>を基礎づけることが<身心問題>の課題だとすると、ジョンソンはこの種の問題を擬似問題として斥けていることになる。
 この点に関連して、ジョンソンはデューイ哲学に対して高い評価を与えている。ジョンソンに言わせると、なるほどデューイは、意味と思考が感覚-運動経験のパターンに基礎を有することを入念に事例分析したわけではないが、ことがらの真相を原理的に理解していたという。
 デューイ哲学の我が国における受容はこれまでもっぱら教育哲学ないし社会哲学の分野からなされてきた。しかし近年、ギブソン心理学への関心の高まりと同時に、ギブソン-リードに影響を与えた「認識の哲学者」としてのデューイへの関心が喚起されているのは事実である。この点には注意を要する。
 <思考>がさまざまな身体運動(見ること、聴くこと、歩くこと、ものを持つこと、など)から切り離された特殊な働きだという誤解から自由になるなら、いわゆる「身心問題」は面目を一新するだろう。この問題は、われわれが環境や他者と相互行為を継続的におこなってゆくことのうちでどのようにして概念化や推論が可能になるのか――まさにこうした問いなのである。
 この指摘は筆者にとってはある意味できわめて興味深い。身心問題の新たな問いへの変換のうちで、イメージ図式の形而上学的身分について、従来あまり強調されなかった論点が図式論の提唱者の一人ジョンソンによって暗示されているのではなかろうか。
 この論点を明らかにするために、はじめに少し長くなるが、前回の文章から引用をしておこう。
「イメージ図式とは、さまざまな知覚-運動地図における不変のトポロジカルな構造にほかならない。ただし、ジョンソンはこうした仮設を、イメージ図式が神経学的実質に還元されることを主張するのではない、と強調している。つまり大脳の神経学的機能は自律性をもたないというのである。もちろん経験の構成に関して大脳は中心的役割を演じるのだが、知覚、感情、行動などの全体と大脳とを切り離してはいけないという。彼によれば、「われわれはつねに以下の点を記憶すべきである。すなわち、イメージ図式は、大脳のある種のアーキテクチャーをそなえている生活体(organisms)にとってのみ存在している。この種のアーキテクチャーは、生理学的に特別な作りをそなえた身体の内部で働き、われわれのような生物に対して非常に特種な<アフォーダンス>を提供する環境と相互に作用しあっているのだ。」
 簡単にいうと、イメージ図式とは、生活体と環境との相互作用から出現するダイナミックな反復的パターンである。しかし相互作用の相手には<他者>が含まれている。環境に属する対象を概念化あるいはカテゴリー化することは、古い形而上学が想定したような、主観-客観の枠組みで解釈しうる出来事ではない。環境にはいつでもすでに他者が住みついている。従って、問題なのは、認識(概念化あるいはカテゴリー化ならびに推論)の(あまり適切な用語ではないが)間主観性なのである。比喩的にいうと、認識の営みは二者関係ではなくて、三者関係である。(パース流に、認識はSecondnessではなくてThirdnessであるといっていいだろう。)
 スペルベルたちの『関連性』(Relevance: Communication and Cognition,2nd, 1995)という著作はコミュニケーションの基礎理論を提供するテキストであるとされる。コミュニケーション理論にもさまざま基礎的見地がありうるが、彼らのそれは<語用論>(pragmatics)であるといって間違えではない。(しかしこの本がカバーするのが単なる言語表現ではないことが実は重要である。その限りこの本の射程は語用論の範囲を超えている。いまはこの論点には立ち入らない。)
 注意すべきは、この本のサブタイトルに二つのCが登場することだ。見ての通り、CommunicationとCognitionとである。筆者の理解に従えば、コミュニケーションと認知とは、抽象的に分離し得ない一つの事態の二つの側面に過ぎない。
 かつてセラーズは(そして後年、ハーマンも)言語の主要な機能に認知とコミュニケーションの二つを数えた。人はまず言語的概念化を行い(=認知をなして)、その概念内容を言葉にして他者に伝える(=コミュニケーションする)という。これはこれで一つの見地であることは確かだろう。例えば、私が教師としてある哲学的概念をだまって頭のなかで思考し(認知)、これを口に出して学生に教える(コミュニケーション)というケースがありうる。
 しかし筆者が疑問におもうのは、こうした純粋に一人称の思考作用が日常的で「自然な」経験について実際にあてはまるかどうかについてである。ここでは議論を端折らざるをえないが、イメージ図式論はまず認識が必ずしも人称性に制約されないこと、つまり前人称的な身体性のレベル(=認知的無意識)で生起することを明確に説いた。(この論点は、メルロ=ポンティの身体性の現象学のそれと同じである。)
 もう一つ疑問がある。私が最初に何かを認知し(まだコミュニケーションの過程はスタートしていない段階で)、次いでその内容をコミュニケーションに引き出すといっても、最初のC、つまり言語的認知が、第二のC、つまりコミュニケーションをすでに巻き添えにしていないと、なぜ言えるのだろうか。もちろんある範囲の概念は生得的であるという意味で純粋に<認知的>であり、<コミュニケーション>の制約を蒙らないという想定には妥当性があるだろう。しかし多少とも「高次の」概念は――初歩的である(elementary)印象を与えるとしても――すでにコミュニケーションに制約されているのではなかろうか(例えば、幼児は多くの初歩的概念を養育者との「会話」を通じて獲得するほかはない)。
 イメージ図式論に対して、次のような評価と解釈を与えることができるのではないだろうか。すなわち、環境と他者との経験の流れから、イメージ図式が創発することを説くことによって、ジョンソンらは、認知とコミュニケーションを抽象的に切り離すことが誤りであることを明らかにしたのである。言語がそもそも間主観的な様態をとる人間的活動であることは、このことを暗示している。
 ついでながら、メルロ=ポンティの『知覚の現象学』序論における謎めいた命題、「超越論的主観性とは間主観性である」という趣旨の言明が当面の問題状況に関連することは確かだといえよう。
 このように、この論文を読む限り、ジョンソンが図式論が当初においてかかえていた独我論的制約を現在では克服しようと努めている形跡は明らかだとおもえる。図式論のこうした原理的転換を促したものが何であったか、筆者はまだつきとめていない。いずれにせよ、かつて「コミュニケーション」には口を噤んでいたジョンソンがいまそれにいての言及を交えて図式論を再考している節は確かだとおもわれる。(ちなみにかつて筆者は、認知意味論のかかえる<独我論制約>を批判したことがあった。「はじめにイメージがあった」、『イマーゴ』、6月号、pp.204-223, 青土社、1992、を参照。後に、菅野盾樹『新修辞学』、世織書房、2003、に所収。今後は、図式論のその後の展開をおさえたうえで論じなくてはならないと考えている。)。    
  (つづく)