イメージ図式の哲学的意義 (4) プラトニズムの”脱構築”

namdoog2006-12-21

身体化された意味(embodied meaning)へのイメージ図式論からのアプローチ:数学における例証
 イメージ図式の理論的意義は、それが抽象的な概念領域へ適用される固有の論理をそなえている点にある。イメージ図式論理(image-schematic logic)は、抽象的な存在者とその作用に関する推論の基礎となって働くのである。ジョンソンによれば、脱身体化された論理(disembodied logic)などは存在しないという。これは、概念や意味の伝統的な解釈、さらに論理学に関する伝統的見地の更新を強いる、きわめて挑戦的なことあげであろう。
 ジョンソンが例証としてあげるのは、LakoffとNuezの共著、Where Mathematics Come From: How the Embodied Mind Brings Mathematics Into Being (2000)で詳細に記述された数学論である。すなわち、彼らは、数学の分野でひろく用いられている基礎的概念や操作が概念メタファーに内含されたイメージ図式的操作によって規定されていることを詳細な分析によって跡づけたのである。
 足し算(加法)、引き算(減法)、掛け算(乗法)、割り算(除法)といった操作をわれわれはどのように理解しているのだろうか。これを明らかにするために、彼らは、<コレクション>(COLLECTION)のイメージ図式から話を始めている。この図式には、ものの堆積ないしグループに対象を加えたり取り去ったりする動きのパターンが付属している。足し算はコレクションに対象を加える行為と対応しているし、引き算はそこから対象を取り去る行為と対応している。(ここに、筆者のいう記号系の<再帰的動き>(recursive move)を認めることができる。)
 一般に経験のうちでのこの種の対応が概念メタファーに基礎を提供する。当面する事例では、源泉領域が(対象からなる)コレクションであり、目標領域を算数とする概念メタファーが問題となるだろう。すなわち、<算数は対象のコレクションである>(ARITHMETIC IS OBJECT COLLECTION)というメタファーは、源泉領域(対象のコレクション)から目標領域(算数)への(存在者と操作との)写像なのである。

 <算数は対象のコレクションである>(ARITHMETIC IS OBJECT COLLECTION)
 源泉領域(<対象のコレクション>)  >>>>    目標領域(<算数>)
 同じ大きさの対象のコレクション   >>>>     数
 このコレクションの大きさ      >>>>     数の大きさ
 より大きい(Bigger)        >>>>     数が多い(Greater)
 より小さい(Smaller)     >>>>     数が少ない(Less)
 最小のコレクション          >>>>     単位(1)
 コレクションを一緒にすること    >>>>     足し算
 大きなコレクションから小さな
 コレクションを取り去ること     >>>>     引き算

 レイコフとニュネスはこのメタファーの重要な含意からさまざまな数学の法則が生成されることを論証している。ここまでを見たかぎりでは、彼らの分析は啓発的というよりむしろ陳腐な印象を与える。ところが、彼らはさらに分析を進めて、数の大きさ(magnitude)、足し算や引き算の結果の安定性、逆演算(inverse operations)、加法に対する閉包〔二つの自然数を加えた結果がやはり自然数であること〕、加法を無際限に反復できること、減法には反復に制限があること、連続的演算の可能性、結果の等しさ、等しさの保存性、交換可能性、等々の自然数のもつ重要な特性を図式論から説明できることを示している。
 算数にとって第二に重要なメタファーは、<起点-経路-目的地>(SOURCE-PATH-GOAL)の図式に基づいている。われわれは、経路にそって身体を移動する運動をこの図式で理解している。ところが、この図式はまた算数の演算をリニアな経路に沿った運動として比喩的に理解するための基礎をなしている。

 <算数は経路に沿った運動である>(ARITHMETIC IS MOTION ALONG A PATH)
 源泉領域(<経路に沿った運動>)  >>>   目標領域(<算数の演算>)
 経路に沿った運動         >>>>    算数の演算
 経路上の点の位置         >>>>    演算の結果
 始点               >>>>    ゼロ
 ある点の位置           >>>>    1
 始点からもっと遠い        >>>>    より多い
 始点にもっと近い         >>>>    より少ない
 Aという点の位置から移動して
 始点から遠ざかること。遠ざか
 った距離はBという点の位置に
 対する始点からの距離に等しい。    >>>>    BにAを加えること
 Aから始点に向かって移動するこ
 と。移動した距離は始点からBへ
 の距離に等しい。         >>>>    BからAを引くこと

 このようにしてわれわれは、<起点-経路-目的地>(SOURCE-PATH-GOAL)という図式と経路に沿う運動の<論理>の知識を利用して、抽象的領域における算数の演算を理解しまたそれについて推論をおこなうことができるようになる。(レイコフとニュネスはさらに乗法や分数の計算、さらにはデカルトの座標幾何学などの分析を推し進めている。)
 いままでに、数学の分野以外では、法(Winter)、道徳(Johnson)、類推による問題解決(Craig et al.)、因果性(Lakoff and Johnson)、心理学(Gibbes and Colston)など多くの分野にわたる抽象的推理と理論化の問題がイメージ図式論の見地から議論されてきた。
 数学のイメージ図式論による基礎づけははなはだ興味深い試みである。とりわけ算数の演算を上記のモデルによって解釈するやり方には、記号系の<再帰的動き>という筆者の記号思想ときわめて近いものがある。レイコフとニュネスの考え方を要約するなら「対象の<コレクション>を所与として、それに対象を付け加えたり取り去ったりする操作(これは身体運動である)が自然数の論理構造を創出する」と言い表してもいいだろう。
 ただし率直に言うと、彼らの数学構成論をそのまま肯定するにはまだ解決しなくてはならない多くの課題が残されている。レイコフたちの議論は古めかしい経験論(例えば、ミルのそれのような)の轍を踏んでいないとなぜ言えるのか。なるほど、図式的に算数を理解し解釈することは、<算数>という抽象的構造を人が理解し他人に教えるためには有意義である。彼らの議論には確かに「教育的価値」がある。しかし果たしてこの種の議論は数学の生成そのものを基礎付けているのだろうか。
 他の例で考えてみよう。かつてジョンソンは、論理学における<二重否定は肯定に等しい>という定理(¬¬pp)がイメージ図式に基礎を有していると論じた(『心のなかの身体』を参照)。
 <入れ物>という図式を人は誕生後かなり早い時期に身体性の図式として獲得する。例えば衣類を着ることは<入れ物>としての衣類に躰を入れることである。あるいは、ベッドから出ることは、<入れ物>としてのベッドという閉じた空間の外に出ることである。これと同型の経験を重ねることの中から<入れ物>の図式はより明確になってゆき、それに付随する<論理>もリアルなものになってゆく。
 ジョンソンは、人が外部から入れ物の中に入ることを<否定>と捉えるなら、入った内部から外に出ることは<否定の否定>になるはずである、という。最初の仮定によれば、外部に居ることは<肯定>であるのだから、<否定の否定>は必然的に<肯定>になる。こうして、<二重否定が肯定に等しい>というきわめて抽象的な論理の法則は身体性のレベルで創出する図式に基づくのだ――こう、ジョンソンは論じたのであった。
 しかし――プラトニストは言うだろう――この議論はいちはやく論理学の法則を先取りしているからこそ、その尤もらしさを維持しうるのだ、と。そして法則そのものは、経験とは独立に、理念的なものとして独自に存在しており、論理学的法則の<生成>とか<創出>などという曖昧な観念に何の意味もない、と。もしこうした反論が成り立つなら、ジョンソンの論法には単なる教育的価値しかないことになるだろう。
 しかしながら、プラトニストのこの種の決め付けが正しいという確信も筆者にはない。プラトニズムはやはり固有の困難を抱えているからである。とはいえ、実は筆者はジョンソンに加担する立場を疑ったことはない。イメージ図式論の正しさを全面的に論証することが不可能だとしても、しかしその本質的部面においてイメージ図式論は正しいと筆者は信じている。問題は仮設の正しさの<論証>であるよりは、<視点の転換>でありまさにアブダクションによる<洞察>の獲得である。
 <入れ物>のイメージ図式に存在論的な優先権を与えよう。この原初の場面では<二重否定は肯定に等しい>という「論理学」の法則は存在していない。ジョンソンの議論はこうした場面で展開されている。議論の大筋が誤りであるわけではない。だが、それに説得力が不足している印象が否めないのは、<入れ物>のイメージ図式の経験から抽象的な論理学の法則の知識がどのように生成するか、その生成を記号主義的観点から記述する仕事が果たされていないからである。  (つづく)