イメージ図式の哲学的意義 (5) 図式の血肉

namdoog2006-12-26

 ジョンソンは、イメージ図式の標準的な記述の方式には「不利な点」(down side)があるという。これまでジョンソンは、イメージ図式を、生活体有機体)と環境とがやりとりをするその只中から出現する反復的な<構造> や<パターン>と規定してきた。ところが、彼によれば、身体化された意味や思考には、構造化からこぼれ落ちる質的な側面があるという。つまり、経験の構造やパターンは身体化された合理性の骨格にすぎないのであって、経験の十全な意味を捉えるには、この骨格に非構造的で質的な要素――経験のいわば血肉を付け加えなくてはならないのだ。
 確かに、イメージ図式分析は概念化と推理が身体性の基礎を有するという理論に多大な寄与を果たした。これまでのところ、語彙の意味論と推論構造の理論の分野において、最も目覚しく意義のある寄与がなされたと言ってよい。しかし、意識の生、あるいは経験は、もし情況について感受された質をそこから除けば、ほとんど無に帰してしまうだろう。ジョンソンは、「人間の意味の経験は、構造と質の両方にかかわる」という命題を掲げる。経験のこの<質>をどのように言語化したらいいのだろうか。
 ジョンソンは、<起点-経路-目的地>の図式を例として経験の<質>の問題を論じている。ある経路に沿って運動が生じている場合、この運動の異なるタイプに応じて、われわれは運動の異なる質を経験している。運動がのろのろと開始されるケースと、急に加速された運動ではそれぞれの質が異なる。しかし図式には、この質の違いが反映されていない、と。なるほどこの例に即するなら、確かにジョンソンの言わんとすることは理解できる。
 意味や思考の構造的側面だけを考察する傾向がわれわれにあることについては理由がある。意味をそなえたゲシュタルトを発見し要素の間の関係を明らかにすることは、主として、個々の構造を同一指定することに他ならないからである。だがそれによって、全面的に意味のなかみが尽くされるわけではない。経験の意味を理解することは、経験の構造をそれに随伴する質や価値や動機づけともども把握することなのである。
 ジョンソンはここでジェンドリン(Eugene Gendlin)の仕事に言及している。この人物は、<黙示的なもの>(the implicit)というキーワードを機軸とした独自な認識論を提唱した哲学者でありかつ精神療法家としてシカゴ大学で教えた研究者である。日本では、<フォーカシング指向精神療法>の提唱者としての業績が翻訳・紹介されている(『フォーカシング指向精神療法』上下、金剛出版)。筆者はこの人の仕事には不案内なので業績についてのコメントはできない。ただジョンソンによるジェンドリン論文からの引用を読むと、問題のポイントが、概念的分析が取り落としてしまうものに絞られていることが分かる。
 しかしながら、ジョンソンが強調しているように、経験の構造とその感受される質とは互いに独立して存立できるものではない。構造は非形式的なものを十全に表現できないが、感受されたものを経験の構造的理解と全面的に切り離すこともできない。
 従来の考え方では、「意味」を構造として分節化できるものに切り詰めることをしてきた。確かにこれは有用なやり方であるが、しかし、身体化された意味を捉えるにはあまりに制約のある戦略なのだ。――ジョンソンのこの批判は、例えばロイ・ハリスによる言語への<統合主義的アプローチ>の提唱とみごとに響きあう。言語の構造主義的分析はソシュール以降、言語学の正統的見地となっている。確かに、ラングとパロールを峻別し前者だけを厳密な科学的手続きで研究しうる言語学の対象と認定したことで、言語学は飛躍的に知見を豊かにした。しかし、ラング/パロールのこうした切断は原理的に誤りである。(この点には後でも触れたい。)
 パロールについては、その後、言語行為論や語用論などの分野で格段に解明の実があげられたことは、ラングの形式的分析の進展と軌を一にしている。しかし強調すべきはその点ではない。むしろ生きた<言語そのもの>が解体され生気を喪失したという事態のほうなのだ。
 ジョンソンは自らが提唱する<イメージ図式論>の長所について疑うことをしないが、しかしその限界を誠実に指摘している。すなわち、現状では、イメージ図式の分析はもっぱら意味や経験の<骨格>を明らかにする――構造を析出する――ことに終始していて、経験の質や価値の側面――<血と肉>――を図式論の語り方のうちに取り込むことをしていない。どのようにすれば図式論として血と肉を語りうるのか――ジョンソンによれば、それは自分には分からないと実に正直に言う。
 いま銘記すべきなのは、イメージ図式が、本来、抽象的な経験の骨格ではないという点である。そうではなくて、イメージ図式とは、同時に構造的で質的で動的な(once structural, qualitative, and dynamic)パターンを有する〔生活体と環境との〕身体的相互作用そのものである。イメージ図式とは、経験の単なる図解のようなものという誤解が蔓延しているようにおもえる。これは図式をある意味で実体化する考え方であるが、これが基本的に間違えであることを、図式論の提唱者自身が明言しているのだ。これは必ず記憶すべき論点である。
 ウィリアム・ジェームズ(W. James, The Principles of Psychology, 1890)は<意識の流れ>を強調することによって、<経験>に関するジョンソンの見解とほぼ同じような見地を披瀝していた。しかし図式論のような具体的分析手法を提示し得なかったために、ジェームズの言説は、貴重だが無益な思弁にとどまった。
 筆者は、ジョンソンの<構造ないしパターン/価値ないし感受されたもの>という二分法を統合するためにまさしく図式論的分析が求められていると考える。そのかぎりでジョンソンの論点に同意したい。
 ジョンソンは、<感じ>(feeling; 感受されたもの、価値)がイメージ図式的構造に単に付随するものなのか、それとも<感じ>は意味を構成する役割を果たすのか、これが当面の争点であるとする。もちろん彼は後者の立場にくみするのだが、有効な分析をまだ示すことができていないことを正直に認めている。
 イメージ図式的な理解において<感じ>がどんな役割を果たしているのか、この問題を誰もまだ解明していないとジョンソンはいう。にもかかわらず、ジョンソンは、「人間の概念化と推理の働きを支えるイメージ図式の働きにとってその質的次元が決定的である(crucial)という直観」を無視できないという。
 繰り返しになるが、イメージ図式そのものに意味や思考のあらゆる内容を含めることは、過剰な要求だという見地がありうる。つまり、イメージ図式は意味や思考のいわば骨格にすぎないのであって、骨格と血肉が分離できるように、イメージ図式に不足した質的で規範的な次元(つまり血肉)を追加できれば十分だという異論が成り立つかもしれない。
 この異論に対するジョンソンの次のコメントは重要である。「異論を唱える者は、イメージ図式から質的次元あるいは規範的次元を抽象することが可能であるという。しかしこの種の抽象化は、精精のところ、人為的で事後的な反省の運動にすぎないのであって、それは決してわれわれが意味を構成し経験するやり方を捉えることができない。」
 ここに窺えるのは、ハリスの言語への統合主義的アプローチの拠って立つ原則と同じものである。正統的な・現に行われている言語学は、<言語なるもの>を――分析の装置に従わせる都合から――種々の区分に分離することによって攻略すること(=分離主義的アプローチsegregational approach)を遂行してきた。なるほどこのやり方で言語の科学は大きな成果を挙げたかもしれない。しかしその代償も大きすぎるものだった。というのは、言語の科学である<言語学>は言語そのものを喪失してしまったのだから。
 筆者は、いま行なわれている<言語学>の原理的制約を次のように解している。少し長いが引用したい。
「現行の言語学的探究について見ると、実際にそれが音声部門・統語部門・意味部門など各種の部門にわかれて研究をおこなっているのがわかる。ところが分離主義の制約のために正統的な言語探究は学知としての断片化と理論的暗礁に逢着している。
 これとはかわって、統合主義的アプローチは言語学的諸部門の分業を認めつつも、当該の部門において何か問題を考究するにあたり、それに固有な概念システムをつねにその潜在性ともども生きなおす試みを怠らない。換言すれば、有効な概念をつねに発生状態において保とうとするのだ。
 例えば、ソシュール言語学における<ラング>は<パロール>から切断されることで概念としての成立を保証されたと誤って信じられてきた。しかし統合主義から見れば、<ラング>が<パロール>から分離したことではなくて、分離がつねに未完了なままであるという力動性に理論的意味が存している。逆に言うと、統合主義的アプローチのもとで初めて、個別的な<パロール>が<ラング>の体系性に効果を及ぼすという<交錯>を理論的に検討することが可能となる。」(「言語音の機能的生成」、『大阪大学人間科学研究科紀要』、印刷中)
 現実世界が無限に存立しうる可能世界の一つの実現である、とするライプニッツ主義は筆者の採る見地ではない。可能世界のリアリズムは形而上学者の夢想に過ぎない。現にあると言い得るのはこの現実の世界以外ではない(ただし、the worldの代わりに、筆者は――グッドマンに倣って――worldsを容認している)。可能性を可能にする潜在性こそがリアルであるだろう。ジョンソンは上の引用に見られるように(「この種の抽象化は、精精のところ、人為的で事後的な反省の運動にすぎない云々」)、暗々裏に<潜在性の形而上学>の見地に拠るように思える。
 さてジョンソンによれば、イメージ図式的骨格に血肉を回復させるための方法はないのかもしれないという。結局、ジョンソンは<イメージ図式>を(現時点では)理念的な統制概念として理解していると言えるだろう。
 筆者は、イメージ図式に対してジョンソンとは別の道筋をつけることが可能であると考えている。彼が図式には固有な<感じ>ないし<価値>や<規範>があると言ったのは妥当であった。しかし彼が、そうした次元を図式として分析し表現することはできないと――断言ではないにしても――臆測したのは妥当ではなかった。絵画と比較すれば、この点は容易に理解がゆくのではないだろうか。
 理論は絵画や会話などとならぶ記号系の具体的事例にほかならない。イメージ図式論を<理論>と押さえるとき、そこに<感じ>や<価値>を帰属せしめるやり方がないと想像するほうがかえって難しい。
 絵画を取上げてみよう。一口に<絵画>と言ってもその表現の様式は実にさまざまである。早い話、例えば<表現主義>(expressionism)を標榜する作家が描いた絵画に、鑑賞者は生々しい<感じ>を見て取ることができる。イメージ図式は字義的には絵ではないが、比喩的には<絵のようなもの>である。そうである限りにおいて、イメージ図式分析が<感じ>を表現できないと断言できないし、むしろその可能性に期待を持っていいだろう。
 こうして、いまわれわれは<イメージ図式論>にとっての現実的な問題に直面することになる。すなわち、具体的な分析手法として、どのようなやり方がこの可能性を開花させることができるのか、という問題である。
 ジョンソンがイメージ図式論の将来に関して消極的なのは、<理論とは何か>という問題を記号主義から基礎づけることを明示的になし得ていないからではなかろうか。すなわち、イメージ図式論にとって必要なのは、<記号系の哲学>あるいは記号主義なのである。 (了)