ユクスキュル・ルネッサンス (1)

namdoog2007-01-05

 いま授業でヤーコプ・フォン・ユクスキュル(Jakob von Uexküll)を読んでいる。テキストとして遣っているのは、『生物から見た世界』(日高敏隆・羽田節子訳、岩波文、2005)。これは、かつて思索社から刊行された『生物から見た世界』(日高敏隆・野田保之訳、思索社、1973)の前半部を改訳したものである。事実、新しい訳のほうが数段読みやすいし正確な訳となっている。
 ただ残念なのは、一つに、旧版の後半部をなす「意味の理論」が収載されていないこと、二つに、古いテキストでカラーの挿絵だったものがモノクロになったこと、三つには、古い版ではポルトマン(Portman)とトゥーレン・フォン・ユクスキュル(Thure von Uexküll )の解説が併載されていたのだが、今回の文庫版ではこれらが割愛されたことである。
 『意味の理論』(Bedeutungslehre)はぜひとも新たに訳出して欲しかった。これは、新しい文庫版の内容をなす『動物と人間の環世界への散歩』(Streifzüge durch die Umwelten von Tieren und Menschen)には見出せない概念や図式などが盛り込まれているという点で、ユクスキュルを読む上でやはり必須の文献であろう。『意味の理論』は1940年に刊行されており、『動物と人間の環世界への散歩』は1934年刊であるから、両者の間には6年の時間的経過があり、この間にユクスキュルの思想が発展ないしは成熟したという予想が十分に立つ。
 また、カラー図版のほうがやはり情報量が豊富である、というより、読者のイマジネーションを刺激するという意味で貴重だと言わなくてはならない。
 最後に、ポルトマンとトゥーレン・フォン・ユクスキュルの解説の文章は、ユクスキュル解釈の上でこれまた欠かすことのできないものである。
 とりわけ、後者の筆による解説「環世界の研究」は、ユクスキュルの思想が本質的に<記号>や<意味>という概念を基軸とした<記号主義>であることを明示した点で、画期的意義を有している。よく知られていることだが、後にシービオク(Thomas A. Sebeok)がユクスキュルを現代的記号学の開拓者として特筆することになる。ところで、シービオクによるユクスキュル再発見は、実はトゥーレン・フォン・ユクスキュル――ヤーコプ・フォン・ユクスキュルの実の息子で医師――を経由して果たされたのであった。
 もし記号学を現代において再興しようとするなら、ユクスキュルの業績は、必ず咀嚼吸収しなくてはならない、発想の源泉をなすだろう。なぜなら、記号学とは、単なる皮膚から内側の身体にあるシステム、とりわけ脳内のシステムの問題――いわば、short-armな範囲を動く思想――ではなく、環境や生命の広がりと深みに及ぶものであるからだ。ユクスキュルこそは、生物学に立脚して正しい意味における<環境>を現代思想のテーマとして定位した最初の人だった。あるいは、ユクスキュルは正しい意味でのlong-armな記号学を樹立した当人だった。
 彼のいう<生物学>もそれ以前の意味合いにおける<生物学>を一新していた。簡単に言えば、<主体>としての生命体という概念に基づいて生物学を構想したのである。いまユクスキュルはもっと読まれていい著述家である。彼の構想は荒削りかも知れない。しかしそれは洗練の可能性を豊かにそなえるということを意味している。筆者は<ユクスキュル・ルネッサンス>を心から待望している。(この記事はその到来を念願しつつ記すところの、ささやかなメモに他ならない。)
 ユクスキュルが<記号学>という一つの<学科>(discipline)にとって重要な人物である、と言いたいのではない。そんな学校風の整理は救いようもなく完全な誤りである。第一、<記号学>は記号に関する専門的学問などではない。<ディシプリンとしての記号学>などという言い方がどだい間違えなのである。なぜなら、記号学はもともと超領域的な(transdisciplinary)知的探究だからである。その限りにおいて、われわれは<記号学>という名称にこだわることもない。(とはいえ、これに代わる適切な名称を思いつかないのだが。)
 古い訳書(思索社版)が依拠した原典、Conditio humanaと銘打たれた叢書(S. Fischer Verlag, 1970)にある「編者序」の翻訳を以下に掲げよう。環世界論を考察する素材とするためである。(思索社版の翻訳を参照したが、訳には理解の容易さを念頭に適当に手を加えてある。)

フィツシヤー版編者 序

 それが、経験による驚くべき発見であれ、新しい方法によるものであれ、とにかく人間の科学に影響を及ぼしたものならば、比較的古い著書でも読者に紹介するのが、この「人間の探究(conditio humono)」叢書の計画の一つである。そのような意味で、「古典的」といわれる著書の一つに、ヤーコプ・フォン・ユクスキュルの『動物と人間の環世界への散歩』と『意味の理論』がある。
 アドルフ・ポルトマンが、その序文で「新しい生物学の開拓者」と呼んだヤーコプ・フォン・ユクスキュルは、著書の中で、当時の「原子論的な」自然科学に対してまったく新しい問題を提出した。それは、個々の生物のその環境に対する関係をどう扱うかという問題である。彼の同時代の研究者とは違って、ユクスキュルは、数学的に自然を解明することはせず、生物が、生得的に具えた感覚器官によって、環境から、自分にとって「意味」のある、ごくかぎられた特定の「知覚標識」を認識し、それに応じて反応することを明かにしている。ヤーコプ・フォン・ユクスキュルによれば、「それぞれ主体は、クモの糸のように、事物の特定の性質との関係を周囲にはりめぐらし、自分の存在を支える丈夫な網を織るのである。」それぞれの生物のもつ特別の<環世界>、経験する<主体>、そして主体と環世界とを結びつける<機能環>は、いずれも、ユクスキュルによれば、外側から認識できる身体の構造とか行動様式の、厳密に経験的な観察によって研究されうるものである。彼は<主体>を研究対象として自然科学的生物学の中へ導入したのである。
 環世界論はさまざまな影響をもたらした。彼の理論は、現代の行動学の先駆の一つに数えられている(たとえば、「仲間(Kumpan)」というような概念は、ヤーコプ・フォン・ユクスキュルによって打ち出された)。とりわけこの『動物と人間の環世界への散歩』において、多くの動物の環世界と行動を紹介しているが、それらを通じて、同じ一つの対象がさまざまな生物によってまったくちがって知覚されるという事実が明らかにされている。
 ところでヤーコプ・フォン・ユクスキュルは、自然科学と精神科学のばらばらな発達が生み出した精神と肉体の対立を、その独創的な研究方法によって漸次的に克服することにも貢献した。長い間、人間をもふくめて、生物については、身体という側面か、経験という側面か、どちらかしか研究できないときめつけられていた。このような考えが、とくに人間学の進歩を妨げていた。ヤーコプ・フォン・ユクスキュルが、生物の新しい全体的な考察において、「機能環」とか「計画性」という概念を活用したこと、そして今日サイバネティクスやシステム分析の中に復活してきた考えの雛形を、一貫して研究してきたこと、それらについてはトウーレ・フォン・ユクスキュルが本書の前書きで説明している。
 ゲオルク・クリサートの手による本書の挿絵は、テキストと一体をなしてこの晩年の著書を形作っている。出版社は意図してこれを現代風の挿絵に入れかえるようなことをしなかった。紹介された「古典」シリーズの中で、この新版は、決して単なる歴史的な興味のためにではないが、記録文書としての性格をもつべきものであるからである。

 われわれの世界観の更新を促がし、新たな認識の枠組みを構築するために、ユクスキュルが具体的に打ち出したいくつかの基礎概念が、この序で明示されている。
 第一に採りあげるべきなのは、新たに解釈された<主体>概念である。ユクスキュルが認識論者としてのカントの学徒であったことはよく知られている。事実、テキストでも、彼はカントに言及している。経験主義的・機械論的・物理主義的(その他にも呼び名には事欠かないが)な傾向にあった従来の生物学をユクスキュルはあからさまに批判した。すなわち、これまでの生物研究は、生物を単なるメカニズムとしてしか把握してこなかった、という。外部世界に<対象>(Objekt)という存在様態で帰属する<機械仕掛け>を事細かに調べることが、従来の生物学(これをユクスキュルは<生理学>に代表させている)の仕事であった。これに対して、ユクスキュルは、機械が働くからには(例えば<自動車の走行>)これを運転する<主体>(Subjekt)を立てることを回避できないと断言する(例の場合だと、主体=運転手)。このように、ユクスキュルの言う<主体>は、知覚=行動系としての生物に仮託された特殊な<主体>なのである。
 前述のように、ユクスキュルの構想が荒削りな面があるのは否めない。<主体>の打ち出し方にも、そうした面がうかがわれる。機械の操作者=主体という言い方はあまりにも雑であろう。もしこれを文字通りに理解すると、人は、例えば人間の認知に関して①<ホムンクルス論>に陥るか、あるいは②生気論/物活論に後退するか、碌なことはないだろう。
 ①ユクスキュル的な主体が実体化された場合:機械仕掛けの背後につねに操作する主体を想定しなくてはならないというのだから、大脳神経系による情報処理の出力を「知る」小人を大脳のなかに住まわせなくてはならない仕儀になるだろう。ホムンクルスとは、この小人のことである。(homunculusは、錬金術師が人工的に創った小人とも、十七世紀頃の医学で、精子の中に宿ると考えられた微小な小人ともいう。)そして、この小人にも情報処理の機械仕掛けを与えるなら、小人の脳の中にまたしてもさらに小さな人を住まわせなくてはならないだろう。こうして無限に後退しなくてはならない。
 この種の無限後退は経験的に可能である、つまりあり得ることだ、と言い張ることはできるかもしれない。もちろん、こうした見地に対して、無限のプロセスを有限の時間に実行できるのか、と反問することができる。しかしこの反問自体が成立するかどうか、不確かなのだ。なぜなら、この場合の<時間>カテゴリーが経験的なそれであるなら(そうだと思える)、問題の全体が経験を可能にする領野(超越論的領野)で設定されている以上、反問はその問い立ての力を失うからである。
 しかし筆者にはやはり<ホムンクルス論>は奇怪な理論であるとしか思えない。反論をやり遂げることができないとしても、である。
 ②主体を実体化しない場合:ユクスキュルは他の文脈では、<主体>を実体としてよりも<生命力>という名に託してある種のエネルギーなり力として語ることを好んでいる。(この点では、もう一つの翻訳『生命の劇場』(入江重吉ほか訳、博品社、1995、に就けば明瞭かもしれない。)これをどう解釈したらいいのか。筆者はここに、ユクスキュルによる、カント的な超越論的意識の<生命化>という手法を見出す。彼がそうした手法を遣ったのには、もちろん伝統的なvitalismの影響もあるのだろう。いずれにしても、現在の生物学では到底認めがたい概念である。
 それでは、ユクスキュルの<主体>を以上とは別の道筋でどのように基礎づけたらいいのだろうか。われわれは性急に他の哲学をここに接木することは控えたいとおもう。当面はあくまでユクスキュルのテキストのなかにあるべき答を見出す努力を払うべきだろう。その際には言うまでもなく、<身体性>、<環境>などの新たな概念が重要な要素になる。簡単に言えば、彼のいう<主体>とは<環境>に帰属する<身体性>のレベルにおけるそれ、なのである。 (つづく)