ユクスキュル・ルネッサンス (7)

namdoog2007-02-27

 ユクスキュルの環世界論の眼目をこれまで――必ずしも委曲を尽くすことはできなかったが――議論してきた。例えば、

  • 環世界論が科学のパラダイム転換をもたらしたこと、簡単に言うなら、物理化学的基礎に立つ生物研究から、<情報>や<記号>を基礎概念とする生活体の研究への転換(<記号論的転換>)である。
  • 生物研究へ主体概念を導入したこと。しかもそうすることによって古典的な<主体>概念の更新を図ったこと。
  • 環世界論が<内部存在論>を基礎とすること。(この点は古めかしい認識論にとってかわる新たな方法論を要請するだろう。)
  • 環世界論が、各々の生物種に対応する環世界の相対主義を招来すること。しかし人間は単に環世界に生きているのみならず、それを限りなく超えてゆく<世界>へ開かれていること

――これらの問題を急ぎ足で検分してきたのだった。
 ところで以上のいわば系(コロラリー)〔すでに成立ないし証明された概念や命題からただちに引き出される他の概念や命題〕として、他にもいくつも論点が残っている。ここで環世界論における<音楽の比喩>の問題を取り上げてみたい。なぜなら、この比喩は環世界論に伴う多様な問題に多少とも本質的な効果を及ぼすからであり、逆に言って、それらの問題を<音楽>という、環世界論におけるルートメタファーを調べることによって、ある程度解明できると思えるからである。
 『生物から見た世界』(岩波文庫版)のあるくだりに、環世界をシャボン玉に譬えた箇所がある。個々人の環世界はシャボン玉のように一人一人を包み込んでいる。他の動物たちも、それぞれの個体がみなシャボン玉に包まれているのだ(50頁)――この比喩でユクスキュルが強調したかったのは、①シャボン玉の主観的な存在性格であり、②シャボン玉相互の絶対的独立、すなわち相対性(「それらのシャボン玉は…何の摩擦もなく接しあっている」)、③したがって、すべてのシャボン玉を包括する世界空間はフィクションに過ぎない、といったことだった。
 ところが、②は明らかに観察の事実に反している。確かに、タンポポの花はマルハナバチに餌場を提供し、ハチはタンポポの受粉に役割を果たしているという例は②を裏書するかもしれない。二種類の生活体の「シャボン玉」は何の摩擦もなく接しており、その意味で相互に独立であるように見える。シャボン玉の膜を突き破って外部のものがその中に進入することはない。その意味で万事が調和的に進行している。
 しかし自然の営みはいつでも調和的であるとは限らない。ある種が他の種の個体維持を脅かし、捕食することがある。つまり主体の闘争であり、ある主体による他の主体の殲滅である。主体には環世界が伴うから、これが環世界相互の侵食でないとは言い得ない。この場合、二つのシャボン玉(環世界)は単に接しあっているのではなく、一方が他方を侵食すると見るのが自然ではないだろうか。
 結論をいうなら、なるほどおのおのの生物種には固有な環世界がある。しかし特定の環世界に他の環世界が干渉することが頻繁に起こりうるのである。その限りにおいて、環世界の絶対的な相対主義は成り立たない。「すべてのシャボン玉を包括する世界空間はフィクションに過ぎない」と言うユクスキュルが、それでも、<環世界>とは別に<世界>あるいは<環境>という概念を放棄できなかった理由もこの論点にかかわっている。<環世界>を包括するものとしての<世界>の視点から見るならば、その部分(<環世界>)相互の交渉と相克がリアルなものとして可視的になるからである。
 旧版の『生物から見た世界』(思索社)にトゥーレ・フォン・ユクスキュルが環世界論の解説を書いている。そこに引用されたヤーコプの言葉(『生物学における客体の役割』、1931)をここでも引用することにしたい(訳文は文脈の都合で手を加えている)。

二つの動物とその環世界とが互いに適応することは、動物と植物の場合にも見られる。タンポポの花はマルハナバチにぴったりの餌場を提供し、ハチはタンポポの花に必要になることを補ってやる。(…)たがいに適応しあった環世界がこうして相互に補完しあっている。宇宙は二重唱、三重唱、四重唱、合唱からなるコンサートで充ちている。雄と雌との間のあくことを知らない歌合戦が、強烈なデュエットを歌っている。(…)

 引用でもユクスキュルの力点は、合唱が全体としてかもし出す(音楽的意味における)ハーモニーにある。しかし実際の自然の営みは必ずしもハーモニーつまり調和に充ちてはいない。そもそも自然の営みが全体として<調和的>であるとか、反対に<不調和>であるとか断定することは馬鹿げている。例えば、<食物連鎖>という生物学的概念は生物界が弱肉強食の世界であることを言っているではないか。
 しかし、<共生>という生物学的事実もある。二種の動物が密接な関係で生活することで互いに利益を得ているという事例は多い。例えば、アリがアブラムシを敵から保護し、その代償として甘い分泌物を得るという例は有名である。人はしばしば自然の営みが秩序だっていることに感銘を覚える。しかし予測不可能な自然災害や異常気象などは、まさしく自然の奥底にひそむ無秩序を暗示するのではないか。
 結論を急げば、自然が全体として調和的か否かを評価する絶対的基準などは存在しないのである。従って、基準の取り方によって自然は調和に充ちたものにも見えるし、不調和でごたごたしているようにも見えるというまでのことである。簡単に言えば、自然は調和的でもあるし同時に不調和的でもある。これが真相なのである。上に挙げた例の<食物連鎖>にしても、これをある特定種の観点から見れば、弱肉強食の「不調和」を表しているとも言えるかもしれないが、生物総体がこのような連鎖でつながれているからこそ、大文字の<生命>がうまく回っているのだから、その意味では食物連鎖は調和を表しているとも言いうる。調和/不調和の対立がどのように決まるかは、視点の取り方の問題なのだ。
 私たちはユクスキュルの独断を離れて<音楽>に比喩を新たに解釈しなくてはならない。機能環の思想は音楽美学にとって決定的に重要であると同時に、世界の存在論にとっても本質的な意義を有している。(音楽美学と環世界論の関係については、拙論「記号の精神からの音楽の誕生」、『恣意性の神話』勁草書房、第8章、を参照されたい。ここでも拙論の文章を部分的に借用している。)
 彼によれば、生活体にとって出現する事物がつねに「意味のトーン」(Bedeutungston)をおびているという。例えば、人間が椅子に腰掛けようとして、このものと交信することによって、このものは「椅子のトーン」を奏でることになる(ユクスキュル『生命の劇場』(入江重吉ほか訳)、博品社、1995、68頁;なお<意味のトーン>の概念はすでに『生物から見た世界』(岩波文庫版)で提出されている)。(この概念がギブソンの<アフォーダンス>のそれによく似ていることに注意。しかしいまこの点に深入りすることはできない。)
 このTonは、ギリシア語のトーノス(弦を引っ張って楽器を調律する)に遡る言葉であって、文字通りには「音律、音調、旋法」を意味する。トーノスにぴったりした日本語がある。「調べ」である。この言葉は動詞「しらぶ」(楽の音律や調子を整える、楽器の調子を合わせる、音楽を奏する)からできたその名詞形。主要な意義として、①音楽を奏でること、②楽曲、③音楽や詩歌のもつ調子、の三つがある。注意すべきは、この事実がそのままTonに当てはまる点である。
 「意味のトーン」という概念のダイナミックな本性に注意すべきだろう。「存在者の調べ」を聴取するには、単に事物を静観するだけでは不足である。事物とやり取りを行ない、交信をかわし、生活体が主体的に事物に振舞いを及ぼさなくてはならない。こうしたやり取りの中に人は<変化のパターン>を知覚するだろう。トーンを引き出すのはこの種のパターンとしての「うごき」なのである。
 ふつうに音楽の三要素ということをいう。リズム、メロディ、ハーモニーの三つである。「うごき」はおそらく音楽の根本要素であろう。リズムはうごきである。メロディもうごきである。ハーモニーもうごきである。すべての知覚システムにとって重要な情報には何らかの共通性がある。その基本形は、感覚刺激の空間的-時間的な変化のパターンである。われわれはこのパターンを<うごき>と呼んで術語化する。
 <うごき>のないところには、音楽の立ち現れる余地がない。そのうごきが一定の文脈のなかである質を具現した<うごき>として現実化されることによって、聴取される音楽的スタイルが定着する。ちなみに、「うごき」の語根は「うご」である。これはじつは<うごめくさま>の音象徴として生成する擬態語にほかならない。この言葉自体がうごきをともない、それ自体がちいさな調べを奏でている。(その調べに耳を澄まそうではないか。)
 議論を端折って言うと、この三要素のための<普遍文法>あるいは一義的に決まった生成のアルゴリズムなどは存在しないという点が何にもまして重要である。音楽作品にとってノイズ(discord)や不調和(disharmony)=不協和音の役割を見なくてはならない。不協和音やノイズは、全体としての音楽作品の成立とその質に寄与することがある。生物界は、上で確かめたように、調和と不調和の見事なバランスのうえに成立している。この論点は、単にハーモニーだけではなく、リズムやメロディに関しても妥当するだろう。ある文化に生きる人にとって心地よいリズムが異文化の人にはそのようなものとして体験できない場合がある。日本人が初めて西洋の音楽を耳にしたとき、彼らは奇妙な音の連続あるいはノイズじみたものを耳にしただけだった。<音楽>の成立には多分に<文化>という要因がかかわる。      
 ユクスキュルは、個々の生物種が固有の環世界に生きながら固有の音楽を奏していると比喩した。ありとあらゆる生活体の奏でる音楽を全体として聴取できるなら、それは一大交響曲として響き渡るだろう。実際、ユクスキュルは自然の営みを交響曲の演奏に譬えている。この比喩はかなりな程度有効ではないだろうか。上述のように、交響曲のあるパートと別のパートがつねに調和的である必要はない。そこに不協和音が混じっていても、あるいはノイズが混入していても、<世界の音楽>の成立が阻害されるとは限らない。いや、むしろ不調和な響きがかえってその音楽をすぐれた作品にする要因となって働くかもしれないのである。
 問題は残っている。神ならぬ生身の人間が、<世界の音楽>を鑑賞しうる能力をもつのだろうか。人間の知覚には限界が課せられてはいないのだろうか。その意味では、<あらゆる環世界がパートとして奏でた音楽の統合体としての世界の音楽>というユクスキュルの考えは、きわめて興味深いものの、あくまで理想概念ではないだろうか。この概念を有効にするためには、われわれ解釈者の側からの工夫がいるように思える。
 しかしながら、もう一度強調したいのは、<世界の音楽>という比喩が、哲学上の相対主義を超えるための大いなるヒントを提供しているという点である。筆者がいま念頭にしているのは、言うまでもなく、ネルソン・グッドマンの<根底的相対主義>(radical relativism)あるいは<複数主義>(pluralism)である。例えば人は天動説と地動説を同時に生きることはできない。日常生活においては、天動説が妥当性をもつが、天体の説明のためには、地動説のほうがすぐれている。どちらかが決定的に間違っているという根拠はどこにもない。こうした相対主義的状況と私たちはどのように和解すべきなのか。
 今後の課題として、ユクスキュルの環世界論にとっての本質的比喩としての<音楽>の問題を真面目に考えてみたい。一つヒントをいうと、<音楽>は英語ではこれまでmusicという語で表現されてきた。すなわち、無定冠詞・単数形の名詞である。(例えば『ジーニアス英和辞典』によれば、この語はuncountableすわなち「不加算」の名詞とされている。英英辞典を含めこの点で辞書の記述は軌を一にしている。)つまり、<音楽なるもの>という、一通りで普遍的な音楽しか認められていなかった。(それが西洋中心主義に結びついていた点を指摘する必要はないだろう。エスニックグループの「音楽」は、遅れた・未開の・音楽もどきとしか考えられていなかったのだ。)
 ところが、近年になって、musicsという言い方が一般化した。複数形が誕生したのだ!(ネット上で簡単に確かめることができるので、関心のある方はトライして欲しい。)つまり<音楽>にはさまざまな形態のものが複数ある、という認識が確立したのである。これには深い理由があるに違いない。人はここにまさに文化相対主義の証左を見出すかもしれない。しかし、私見ではそうした解釈は不十分である。むしろ、<普遍的ルールなき普遍性>というしかないものが問題なのではないのか。<アプリオリに確定された普遍性>ではなくて、生成のただなかから実現化してゆく<生きた普遍性>が問題なのではなかろうか。  (了)