類似の可能性の制約としての身体

namdoog2007-03-16

 このところ、いわゆる一身上の都合で、この日記に向き合う時間が捻出できない状況が続いている。新しい文献に依拠した文章を書く余裕がない。必要に迫られて図書の整理をしていたら、いまから数十年前、はっきり言えば、前期課程の学生のときの古証文を見つけた。筆者を含めて四人の仲間とやっていた勉強会のために準備した草稿である。それを再読したが、全部棄ててしまうのは惜しい気がした。もちろんそのままで人様にお見せできる出来栄えではない。
 以下に掲げるのは、現時点で多少の添削を施した改訂版である。論題は明確である。普遍者の構成原理としての<類似性>に関する考察が問題である。類似のいのちを分析によって「漂白」しないですむような<類似の論理学>をまだわれわれは手にしていない。以下では、<類似の現象学>から<類似の形而上学>への移行が試みられる。

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 深夜の街路を家路めざして急ぐような場合、点々とつらなっている街灯のどれか二つがチラチラと瞬くのを見ると、たとえそれら二つの灯が隣り合ってはいなくとも(近接性の欠如)、まるで両者には秘められた交信がかわされているかのように感じられてしまう。
 また例をあげれば、ガラス窓に二匹のハエがじっとへばりついているのに、もう二匹のハエがきぜわしくガラスの面のあちこちを這い回っているのを見ると、静止した二匹と動き回る二匹が、それぞれペアで示し合わせて何事かを遂行しているように見てしまう。
 これら二つの事例にうかがえるのは、個体ないし個物の振る舞いが照応する現象(correspondence)である。そして<照応>を基礎づけているのは振る舞い相互の<類似性>にほかならない。後者の例でいうなら、ペアをなすハエのそれぞれの動きにこめられた「意図」ないし「意味」を類似したものとして了解するということだ。
 類似は意味に充ちている。擬人化を避けるためにしばらく問題の観察にあたって「意味」ではなく「イミ」と言うことにしよう。このイミはあからさまに<かくかくしかじかのイミ>として感得されることもあれば、判じ絵をわれわれが凝視する場合のように、雑多な線の集合の地の上に何かの形が出現しつつあるという緊張の予感に過ぎないこともある。いずれにしても、類似はイミありげな面持ちを必ず呈しているものだ。
 世界はある意味で判じ絵に譬えることができよう。環世界は生活体のその都度の構えに相応して、そのレイアウトをさまざまに裁ちなおされ、奏するトーンが転調して、そこに一定のゲシュタルトを出現させる。環世界が生活体に<問い>を放つ限りにおいて、それは<生きられた判じ絵>にほかならない。
 必ずしも二人の人間が一つの判じ絵に同じ図柄を発見するとは限らないように――ロールシャッハテストを考えて見ればいい――類似のかもすイミありげな相貌は、あらゆる主体にとって同じ資格でプリミティブであるわけではない。この相貌が生き生きとしたものとなるには、主体(生活体)の執る<構え>ないし<態度>に環世界が巻き添えにされる必要がある。
 それゆえ、同一の主体にとっても、類似する同じ風景が多様に映じることがあるだろう。主体の構えがその都度異なるからである。こうして、原理的に類似はいかがわしさにまみれている。あるいはメルロ=ポンティの言葉を借用するなら、知覚項(le perçu)はつねに両義的なのである。
 主体の執る構えをただちに主観主義的に解してはならない。確かに、主体が環世界に対して一定の<観点>をとるからその場に<類似>が出現するというケースがある(例えば、ゲシュタルト心理学者が持ち出す<両義的な図柄>の場合)。しかしこの場合にも、視点のとり方は恣意的ではありえない。換言すれば、視点の取り方には自ずと制約が課せられている。<両義的な図柄>を何かしら任意なものとして好き勝手に見ることは不可能である。それは視点の取り方に応じて、あるいは花瓶として、あるいは人の横顔として知覚されるほかはない。
 要するに、問題なのは<身体化された視点>なのである。もし主観主義的にこの<視点>を解するなら、いわば<本来的な類似>などはないことになってしまう。言い換えると、類似の呈するイミありげな様相は単なる仮象(appearance)に過ぎないのであって、現象(phenomenon)でないことになる。しかしながら、類似は生活体に対してある種の強制力や自然な傾向を有している。イミする類似は、その意味的実効性によって生活体を規制する。彼らの周囲にはモノをいう(有効な)類似が充満している。
 環世界を貫くイミ的連関を記述することと、その論理的構造を解明することとは別の種類の作業である。残念ながら従来の哲学文献は後者の作業を怠ってきた。いや、それは公正を失した言い方かもしれない。各種の類似の論理学が試みられたのは事実であったが、成功を収めた論理学は一つもなかったと言うべきだろう。


 美術館のある部屋から薄暗い隣の部屋は這入ってきた私は、突然目の前に、古典的衣装をまとって微笑んでいるシャルル8世の現し身を視た――と、それは一幅の画にすぎなかったのだ。どうしても微笑んでいるとしか視えない、その口辺も、私が気を取り直して凝視すれば、それ自身もはや微笑んでいることなどありえない、酸化した油性の塊に過ぎない。かりそめにも分析的態度に身を移して見直すとき、一枚のタブローに認められるのは、きれぎれの線や陰影に富む彩られた形などである。
 もちろん全部から一本の線を取り出しそこに照準してさらに分析を進めることができる。この緩やかなカーブを描く線も、注意を凝らして見れば、ここでくびれており、そこではかすれており、「緩やかなカーブを描く」線どころではない。私はここで拡大鏡を持ち出すかもしれない…。こうして、この分析操作には果てしがないがわかる。
 イミありげな類似からスタートして私が行き着いたもの、それは<無意味>である。いや、上記の約束に従えば、<無イミ>である。
 今しがたまで私はこの絵について「まるで本物そっくりだ」とか「精彩がある」とか思いなし、感嘆して絵に見入っていた。私はほとんど我を忘れていた。…こうした表現にこめられた<揺るがし難い信憑>、言い換えれば、本物の人物と絵の間に架け渡された、魔術的な<類似>の信憑から身を引き離し、我に返った<私>にいま残されたものはあまりにも貧弱な<暗示>以外ではない。
 信憑は破られなくてはならない。<類似>という詐術は摘発されなくてはならない。ところで、間違えにも<十分な理由>がある。その理由を闡明すること、これが問題である。


 類似を私たちが生きるのは、両義的でいささかいかがわしいイミというスタイルによってである。それにしても、イミはいかにして可能なのだろうか。
 従来、この問いには二様の接近法があったように思える。ある人にとってイミは――意味と同じように――意味付与者としての<意識>によって狙われる標的である。例えば、ある種の線や色の集積としてのタブローに<シャルル8世>の姿を見るのは――すなわち、類似を具現したものという意味での<絵画>としてタブローを構成するのは、経験的領域に帰属する単なる事物ではなく、事物を事物として構成する<意識>に他ならない。
 別の人はイミの魔術祓いをやってのける。タブローは事物の一種であり、本来あるいはそれ自体としてイミに充たされているわけではないという。にもかかわらず、それを視る者が何かの姿を見るほかはないのは、次のような習慣の所産に過ぎないという。私がそこに認めるあらゆるデータ(雑多で外的なさまざまな無イミの集積)を<絵画>として生気づけるように、私は幼い頃から大人たちに教え込まれてきた。問題は、対象の存在様態であるよりは、対象への私のかかわり方(習慣)にある。この習慣は<そのタブローに対して、あたかも「絵画を見る」ような態度をとる>という内容によって規定できるだろう。
 初めの接近法をかりに類似の観念論、後のものを類似の経験論と呼ぶことにしよう。類似の観念論によれば、類似を構成する要件としての<観点>とは意識のそれである。いや、むしろ<視点である>というあり方ができる存在者を人は<意識>の名で称するのだ。だとするなら、意識は意味ないしイミの構成者であり、意味/イミがそこから溢れだす源泉である。
 類似の経験論にとって、<視点>は他のデータとならぶ別のデータにすぎない。例えば、その正面からシャルル8世の絵を見ることは、特殊で個別的なある感覚与件をもたらすだろうし、斜め横から同じ絵を見ることは、やはり別の意味で個別的な感覚与件をもたらすだろう。類似の経験論にとって、<視点>の意義は感覚与件の差異に解消されてしまう。換言すれば、感覚与件のバラエティのレベルを超えた<視点>なるものはどこにも存在しないことになる。
 しかし類似の経験論には、致命的な欠陥がある。視点が感覚与件のバラエティに解消されてしまえば、そもそも何かが<絵画>として出現することもない。つまり、絵を絵として見るという経験がいまや不可解な事象となり、無自覚に前提されてしまうのである。
 視覚以外のデータを付け加えることで窮地を脱することができるだろうか。問題が感覚様相の違いにかかわらない点に注意しなくてはならない。類似の経験論では、無意味ないし無イミの<沈黙>が破られるという、じつに平明でありきたりの経験に説明のつけようがない。
 では初めの、類似の観念論は首尾を遂げるだろうか。なるほど、両義的図柄の視覚を説明するために、類似の観念論は有効であるようにおもえる。しかしこの成功は度がすぎている。類似の揮う有無を言わせぬ強制力はどうなってしまうのだろうか。ルビンの図柄は、花瓶か横顔かの二者択一を視る者に強いるだろう。私たちはその図に任意に何かの形(意味ないしイミ)を見るわけにはゆかない。
 絵に対して分析的態度で臨むことにも多少とも抵抗がともなう。まして錯視の事例では、観点としての意識は、いかがわしい類似へ絡めとられ、本物の意味のかわりに曖昧なイミに呪縛される。類似の観念論はこの意識の不自由を説明できない。なぜなら、類似の観念論には、意識が呪術にかけられることがそもそも想定として含まれていないからである。もし観念論が正しければ、イミのいかがわしさを自覚するだけで、途端に迷妄は消失するのではないだろうか(ミューラー・リエルの錯視で実験してみればよい)。
 私たちがこの小さな観察から引き出すべき教訓は明らかだろう。古典的な意識とも身体とも異なる、経験の<主体>を捜し求めなくてはならない。それは、さしあたり<呪縛される可能性を固有な可能性としてその存在のうちに組み込んだ意識>として規定することができる。メルロ=ポンティはこの種の主体を<固有身体>(corps propre)あるいは<本来的身体>と呼んだのであった。
 類似の謎を解くことは、初めから挫折を余儀なくされたパズルである。私たちはむしろこの謎解きの意義を深く理解することを通じて、私たちが世界へ帰属する存在様態である<本来的身体>に行き逢うことになるだろう。

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 この草稿が貴重なのは、当時の勉強会に参加した仲間のコメントがメモしてある点だろう。
 T君(仲間のうちでは多分最も著名な<笑う哲学者>)は、違うものこそが類似するという理解が常識に含まれていることを指摘している。
 筆者の論点は、一般者を構成する原理としての類似性にあった。例えば、Aなるカテゴリーに包摂される二つの個物a,bがあるとせよ。それぞれが同一のAであるのは、aとbがどこか類似する(=少なくとも一つの特性を共有する)ことに根拠がある。
 ところが、<類似性>が謎めいているのは、a, bがAであることが確定した場合、それでもなお、見方を変えれば、それらがAであることをいわば中和する余地を残しているということだ。
 換言すれば、a, bのおのおのは、類似などしていないことになる。まとめて言うなら、類似性の成立には異種性(似ていないこと)の裏打ちがある、ということである。これを心理学的に解釈するなら、別個の似てはいないものがまず認知され、次いでそれら相互間に類似性が発見される――これが、ふつうの認知の傾向性だということになる。
 しかもT君の言うには、<類似性の発見>はたいていの場合即座になされる。入念に吟味して見出される<類似性>がないわけではない。しかし多くの日常的・無自覚的な類似の認知は瞬時に実現するのである。この二種類の認知の様態が正確にはどう違うのか、そのメカニズムの違いは何か、などいろいろと疑問がわいてくる。
 さてもうひとりの参加者I 君は<類似性の問題>に対する連想心理学の哲学的有効性を強調している。ただ彼の連想心理学の解釈はそれ自体がオリジナルな形而上学の体裁をなしている。その構想を詳しくここに紹介できないのは残念だ(彼は惜しいことに先年亡くなった)。残されたメモでは、その全容を十分には理解できないからである。しかし記号主義を標榜する筆者として、あらためて驚きの念に捉われたのは、ここでI 君がすでに記号学的なカテゴリー(記号/シグナル/シンボル、など)を駆使している点である。
 彼は、じつは理系の出身であったが、短期間企業に勤めた後に哲学科に入り直して哲学教師になったという経歴の持ち主である。現代的な記号論理学が含意する形而上学を解明するという戦略に拠りつつ、オリジナルな思考を展開していた。筆者はその実力に密かに敬意を払っていたものだ。文字通り<畏友>という名に値する友人であった。数少ない文章しか世に問うていないが、遺された講義ノートなどがあるに違いない。もし厳存するなら、ぜひ閲覧したいという想いに誘われたことであった。 (了)