、隠すことによって顕示する記号の形態

namdoog2007-04-01

 古い写真だが、D.リンチ監督の『エレファント・マン』を見たときのショックはいまだに覚えている。
 エレファント・マンことジョゼフ・ケアリー・メリック(Joseph Carey Merrick、1862年8月5日〜1890年4月11日)は、ヴィクトリア王朝時代のイギリス社会で著名な人物の一人であったが、いまだにそうであり続けている。なぜ彼がそれほど名を知られたかといえば、その身体の極度な奇形のゆえであったことは言うまでもない。
 しかし、その名がつねに人々の記憶にとどめられたことの大きな理由は、とりわけ医師フレデリックトレヴィスが作製し後世に遺した詳細な記録にある。その外貌から<エレファント・マン>と呼ばれたこの人物の詳しい生涯と医学的所見については文献にゆずりたい。ここで取り上げたいのは、<隠すことによって顕にする>という、逆説的な記号機能のことである。
 メリックは特に頭部と左手が変形していたので、衣類(帽子、マスク、マントなど)で異常な身体部位を日常的に隠していた(masked)。ところがここに記号機能の最大の逆説がある。すなわち、この<隠すこと>を目的とするはずの<マスク>という名の装置が、むしろ人々の目を惹きつける機能を存分に発揮してしまうのである。<マスク>は実態を隠すどころか、実態を指し示すための<標識>となる。顔や手などを布で覆い隠すその衣装が、一見していかにも異様な印象を人に与えざるをえないからである。
 では、人の目を遠ざけるためマスクをかなぐり捨てればどうだろう。結果はいっそう過酷である。メリックはその異様な奇形を白日の下に晒すことで、なおいっそう人の目を惹くことになってしまう。映画のあるシーンで、彼は声をふりしぼってこう言う。“I am not a beast, I am a human being!” 私はケダモノなんかじゃない、私だって人間なのだ、という悲痛なこの訴えはどのように解されればいいのだろうか。
 記録によれば、メリックはその変形した肉体のせいで円滑に会話することは困難だったが知能はまったく正常で、12歳までは学校にも通ったので読み書きはむしろ堪能であった。
 古来、人間は理性的動物である、と言われてきた。この言い方には人間が自己をどんなものとして了解しているかが映し出されており、また同時にこの自己了解によって、人間が人間としての自覚を有するにいたった経緯が示されている。確かに人間は動物の一種であるが、しかし<理性>という人間固有の属性、つまり<本質>によって他の動物から歴然と区別されるのである。人間の理性の証しがその言語行動に示されているかぎりにおいて、人間は<ホモ・ロクエンス>つまり<言語を営む人>にほかならない。
 メリックが言語能力を発揮した以上、彼の肉体がどんなに奇異であっても、彼が人間としての自己主張を行なうのは(換言すれば、自分は人間の本質の所有者だと主張するのは)、「哲学的に」まったく正当であろう。
 この種の本質の形而上学は私たちに親しいものである。しかし問題とすべきはむしろ、メリックのこの言葉に、<本質>を生成する形而上学的機制が暗示されているという点である。先走って結論をいうなら、「本質は元からあるものではなくて、本質になるのである。」本質(essence)はあるのではなく、生成するのである――これ以上の形而上学パラドックスがあるだろうか。すなわち、奇形性を隠し忌避することによって、奇形でないものとしての無垢の<本質>がかろうじて現実性へと掻き集められ凝集するのである。(本質の形而上学を生み出すもうこの形而上学的機序については、筆者はかつて『我、ものに遭う』や後の『いのちの遠近法』でかなり詳細に述べたので、関心をもたれた向きにはこれらの文献の参照をお願いしたい。)<本質の生成>の問題にはこれ以上深入りする余裕がない。ここではただ、仮面という有徴性(markedness)が<付帯性>の否定的媒介によって<本質>を指し示すという逆説について言及しておくにとどめたい。
 隠すことによってむしろ「本質」を顕にするという記号機能は、一般に<仮面>という記号形態を成立させる逆説にほかならない。ベドゥアンは仮面について適切にもこう述べている。「仮面に刻印されている特徴は(…)仮面が自分を隠すというよりすすんで自分をさらけだす、ということである。また仮面はその覆いをぬぐという性質を仮面というあり方のうちにもっている。仮面が覆い隠すものである、という機能はこの条件のもとで発揮されるに過ぎない。」(『仮面の民俗学』、白水社、1963、pp.23-24、訳は筆者による意訳である)。言い換えるなら、仮面で正体を隠すとしても、それは必ずいつかは外すほかはないものであるだろう。そのかぎりで、仮面とは、正体を最終的に露わにするために、いったんは正体を隠して人の注意を惹きつける装置である、というのである。(それゆえに、本物の顔と一体化した仮面の物語は悲劇にしかならない。『修善寺物語』を参照。)
 ここで着手するわけにはゆかないが、我が国における<仮面の記号学>をこうした観点――仮面とは<隠れたるもの>を顕かにする記号学的装置である――から記述することができるに違いない。<隠れたるもの>とは、それぞれの事例において、本質、超自然的存在者、カミ(神)、マナ(レヴィ=ストロース)、アニマ(タイラー)などであったりするだろう。
 <覆面>のこの記号機能を戦略的に用いている第一人者は「東北の英雄」ことSASUKE(サスケとも)であろう。彼は岩手県を本拠地とするプロレスラーだが、ある時期から覆面(歌舞伎の隈取をモチーフとする)を着用するようになった。本人の言うところでは、自分が経営するプロレス団体の職務中はもとより入浴などの私生活においても一切覆面を外すことはないという。つまり彼の顔を誰も見ることができないという意味で、彼は<顔を持たない人間>なのである。
 だが問題は単にプロレスというエンターテイメントの世界にとどまらなかった。彼の覆面が大きな社会問題になったのは、岩手県議会選挙に彼が打って出て見事当選してしまったからである。彼は、覆面は自分という人間の一部であると公言している。議会が覆面を脱ぐよう要請したにもかかわらず、議場内でも彼は覆面を着けたままで押し通した。<覆面> の下に素顔を隠すというやり方がかえって岩手県議員としてのサスケにハイライトを集中する効果を生んでいる。顔を隠すからこそ、彼の存在感はいっそう際立つのである。
 長い目で西洋の精神史を振り返えってみよう。するとキリスト教が勝利したあかつきに古代の神々がやむなく身を隠さなくてはならなくなった顛末が知られる。ハイネ(Harry Heine)によれば、その形式が<覆面>である。この状況はすでに古代にもあった。ギガンテス(ギリシャ神話の巨人族)が冥府の神オルフェスの監視を逃れて地上に上った、あの時代のことである。「彼らは覆面をして、動物などに身をやつして隠れ住んだ」(『流刑の神々、精霊物語』、岩波文庫、p.127)。
 隠れた古代の神々は死んだのでもなければ、威力を失ったのでもなかった。デモンやスピリットがなぜ覆面や仮面で正体を隠さなくてはならなかったのか。それは隠れること(抑圧されること)を通じて顕であり続けるためであった。覆面ないし仮面にはこうした尋常ではない両義性が伴うことを見逃してはならない。つまり、隠れたまま可視的である、という逆説のことである。
 ふたたびエレファント・マンの場合にもどろう。仮面という顕示の形式に、批評家フュードラーは性的な含意を感じとっている。彼に言わせれば、エレファント・マンが大衆の人気の的となった原因の一端は、両義的な形での性的なものにあったという。
 21歳のメリックは生きるために見世物興行に働き口を求めた。見世物小屋には陰惨なイメージがつきまとうが、後の回想によれば興行師には寛大に扱われたといい、実際に自活できるだけの収入も得ることができたという。この売り込みのため「エレファント・マン」の名がつけられることになる。彼のショウは、身体を隠す布やマスクを長い時間を費やしてしだいに脱ぎ捨ててゆくというものだった。それは、長いサスペンスの果てに奇形の正体が完全に顕にされるという、一種のストリップティーズだったのである(『フリークス――秘められた自己の神話とイメージ』、1999、青土社)。
 仮面という顕示の記号機能に性的な含意がつねに伴うものかどうか。このフロイト的命題についてはなお詳しい観察が必要だと思われる。ただし理論的解明は別にして、仮面とセクシュアルなものとの関連は明らかであろう。カーニバルに仮面はつきものである。多くの人が知っている事例は『オペラ座の怪人』の主人公かもしれない。実際にドラマの中で仮面舞踏会が行なわれてもいる。
 もう一つの顕著な例をあげよう。スタンリー・キューブリック監督の『アイズ・ワイド・シャット』のシーンが目に浮かぶ。この映画は夫婦それぞれの愛とセックス観を表現したものだが、夫が仮面を着用したメンバー達の集まる性的な秘密結社に紛れ込むシーンは、そのおどろおどろしい雰囲気の印象によって忘れがたいものだ。
 急ぎ足で仮面の記号機能を調べてきた。〔補遺:この文章を書いた後から思い至ったのだが、従来のペルソナ論――つまり<人格>という存在者を仮面との関連で考察する議論である(http://www33.ocn.ne.jp/~homosignificans/symbolnoumi/content/works/papers/persona.html)――をここで述べたようなパースペクティブから再考する必要がありそうである。この点を付記しておきたい。〕これらはほんの少数の例に過ぎないが、どうやら<仮面のエロティズム>には疑いを入れないようである。問い残した問題として、<仮面のエロティシズム>と<本質の形而上学>とのかかわりの如何、という点がある。しかし、この知見を得たことによって、今回の仮面をめぐる小さな記号学的観察をひとまず締めくくることにしたい。