言語の実像を作り直す (1)

namdoog2007-04-19

〔すでに公にした、一連の「言語のイメージングをやり直す」(9日分)という考察を1時間程度の講演のスタイルでまとめてみました。以前の記述に比較して打ち出したい論点が鮮明になっていればいいのですが。〕

 初めに私の問題意識について簡単に述べましょう。言語とは何か、という問いに対して人々はあらかじめ一定の了解を持っています。その了解は、一部は経験や常識に、一部は言語学言語哲学などの学問知を源泉としています。ここで現行の<言語>という観念の内容を問い直してみたいと思います。

 なぜそうした問いを立てるのかと言うと、20世紀以来の言語探究の動向のなかで、私なりに、例えば日常言語派の研究、あるいは言語行為論、語用論的探究(その延長としての関連性理論)、レトリック研究、コミュニケーション論、認知言語学ないし認知意味論の研究、などに触れるにつけ、従来の<正統的言語学>が依拠する言語観に限界があることを痛感せざるを得なかったからです。

 最初にこれからお話しする内容について、そのあらましをごくおおまかに披露しましょう。①まず、20世紀以降の「正統的言語学」がどのような言語観に依拠して営まれてきたか、その言語観を確認したいと思います。②次いで、これにかわる言語のイメージを提出することを試みます。先走ることになりますが、私たちの主張を一つの言明に要約するとこうなります。「言語とは、言語以前の記号系の<再帰的動き>によって生成するもう一つの記号系である」と。③このことと同時に、言語そのものを<再帰的動き>として解明しうることを論証します。ここで<動き>(move)という用語を遣いましたが、この用語法が身体運動を念頭に選ばれていることを見逃す人はいないでしょう。そして、以上の②と③の議論を、<初発の言語音>(ontologically first linguistic sound)の生成を記述するという仕方で明らかにするつもりです。


1 20世紀以降の <正統的言語学 >が依拠する言語イメージとその存在論的含意

 ここで <正統的言語学 >と呼ばれたものは、おおむねソシュールが礎石を据えた以後に展開された言語学を言っています。もちろん現に行われている優勢な言語学には幾とおりも種類があり、一概にそれらをひとからげに論じるわけにはゆきません。

 それでも、ソシュール言語学が創出し提示した <ラング>(langue)としての言語、つまり<言語記号のシステム>( système de signes linguistiques)としての言語という了解はそれらの言語学に共通していると見てさしつかえないでしょう。

 さらに細かく見ると、たいていの言語学が、言語の音声部門を分析する音韻論(phonology)、言語要素を結合あるいは変形して文を生みだす構文論 (syntax)、言語の意味を扱う意味論 (semantics)という三つの分析レベルを<言語記号のシステム >――以後、<言語システム >と略称します――に対して設けている点でも共通しております。

 その後、ご存知のように、言語の運用を調べる <語用論>(pragmatics)の分野が著しく発展しましたが、この点についての評価は後に述べたいと思います。

 ところで、言語システムが成り立つためには、三つの分析レベルのおのおので、明確な基準で規定された単位的な言語要素が言語的事象――話し言葉であれば、これは <音響的出来事 >(acoustic event) つまり <音声>(voice)に相当します――から抽出できなくてはなりません。なぜなら、それらの言語要素が相互に関係しあうトータルな様態に、ひとつの <言語システム>が過不足なく重なるからです。換言すれば、要素の関係性の全体がひとつのシステムを同定するわけです。

 こうして<文の生成>のためのなじみ深いイメージがもたらされることになるでしょう。つまり人間は、単なるノイズから言語音を濾過して取り揃え、この素材を継ぎ接ぎして語彙を形作り、さらに語彙を組み合わせて文を作るのだ、というイメージです。

 この種のイメージにおいては、明らかに、言語が<記号>という名のモノ(事物)の集合として描かれているのが分かります。これこそが、正統的言語学にとって決定的な存在論的制約です。

2

 これはいわば素人が言語学を学ぶ過程で形成する言語のイメージであり、その意味では素朴だと言いうるかもしれません。しかしこの素朴な了解に、繰り返すことになりますが、正統的言語学ないし言語哲学が描く言語像のエッセンスが示されているのです。

 この事情は、ソシュール言語学が創出し提示した <ラング>(langue)としての言語、つまり<言語記号のシステム>( système de signes linguistiques)としての言語、という了解と比較するとき、いっそう明瞭になるでしょう。

 ソシュールは、言語探究が <言語システム>としてのラングを研究対象にする場合にかぎって学問(discipline)になると考えました。言語の使用あるいは個別的な発話である <パロール >(parole)は、その個人性、偶然性のゆえに、言語学の本来の対象とはならない、と彼は言います。(ちなみに <パロール言語学 >にソシュールが言及しなかったわけではありません。ただこの種の言語学ないしその一部門――例えば <音声学 >(phonetics)――には消極的役割しか与えておりませんし、実際のところ、その種の言語学は学問としてのその存立を認められなかったにひとしいのです。)

 ソシュール言語学はある意味で誤解の的であり続けました。なぜなら、彼の言語思想は純粋な形相主義に覆われていたのですが、イェルムスレフ*を例外として、この形相主義は必ずしも20世紀の言語学の基礎にはなり得なかったからです。

 *イェルムスレフ(L. Hjelmslev, 1889-1965)は言語学における<コペンハーゲン学派>のリーダーとして知られる。コペンハーゲンプラハそしてパリで言語学を修め、1931年ウルダール(Hans-Jørgen Uldall)とともに言語学研究サークルを組織し、新しい言語理論GS――グロセマティーク(Glossematik)、英語ではグロセマティックス(glosematics)――を打ち出した。

 ソシュールがその形相主義によって伝統的な記号の観念を覆したことは周知の事柄です。

 伝統的に、記号に関しては、<それ自身とは別の何かを代表するもの>(something which stands for something else; alquid stat pro aliquo)という理解がおこなわれてきました。例えば、紙の上に書かれた「イヌ」というデザイン(その素材は黒い染料です)はある種の哺乳類を代表します。これに従えば、言語という名の記号は――個々の犬が世界の中の事物(モノ)であるのと同じ意味で――ある種のモノ(事物)にすぎません。

 ところが、ソシュールは、言語記号を記号表現(signifiant)と記号内容(signifié)という二元性(紙の表裏)の統合体とみなしました。それぞれが、<聴覚イメージ>(image acoustique)、<概念>(concept)とも呼ばれているのから想像できるように、これらは、伝統的形而上学にいう<形相>に相当します。それゆえ、言語記号は、事物(モノ)〔実体〕が質料(hylē)を形相によって限定することで成立するかぎり、<事物>のカテゴリーには属しません。<言語記号のシステム>あるいは<ラング>がおおいなる質料Xに分節化をもちこむのであって、その後で初めて、事物(モノ)が世界に生起するというわけです。

 この種の形相主義を20世紀以降の正統的言語学は放棄しました。それはある意味でソシュール以前の理論的段階へ逆行だと解することもできるでしょう。放棄の具体的ありようはさまざまです。例えば、ここでは立ち入れませんが、言語を最終的に「言語的本能」(linguistic instinct)として遺伝子という生物学的基盤に還元する考え方(S. Pinker)や、「言語モジュール」を大脳神経系に生理学的実体として想定する考え方は明らかに反形相主義的であって、そのかぎりで言語をモノ化する見地に他なりません。 (つづく)