言語の実像を作り直す (2)

namdoog2007-04-22

〔この講演で理論的ターゲットにしたのは、あくまでも<言語音>であって、<言語>ではない。単一の言語音では言語と呼びうるような記号系にはならない。大雑把に言うと、言語とは語彙と文法のセット(ソシュールのいう<言語記号のシステム>としてのラング)なのである。この講演の趣旨は、言語以前の(つまり沈黙裡の)記号環境に人間が<音>という素材を初めて記号化するに至った経過を、一編の形而上学的物語として綴ってみることにある。実際にこの話を人前で披露したところ、聴衆の中にはこの点に関して誤解する人がいたようである。以上を前置きにして前回の続きを掲げよう。〕

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 ソシュールの形相主義が20世紀以降の正統的言語学にいわば裏切られた誘因には、コミュニケーションとしての言語に関するソシュールの捉え方が影響したのではないでしょうか。(話が前後しますが、言語の機能にはさまざまなものがありますが、それらを二つのCで集約できるでしょう。つまり、Cognition(認知、概念化)とCommunicationです)。

 言葉によるコミュニケーションをソシュールは <パロールの循環 > (le circuit de la parole) としてモデル化しました。20世紀以降の正統的言語学言語哲学(正統的言語探究)は、コミュニケーションとしての言語の研究についてはこのモデルに決定的に制約されてきたと言えます。

 彼のアイデアを理解するには、講義録に添えられた挿絵〔上図〕が役だつでしょう。

 この絵にあるように、まず Aという話し手が脳裏にある概念を想いうかべる(意識事象)→この概念が聴覚イメージと連合して記号表象を構成する→この表象にともなう生理過程によって音声が作りだされる→音声は音波として聞き手Bの耳に達する→耳から脳へ達する生理的過程が生じた結果、Bの脳裏に聴覚イメージがもたらされ、それに対応する概念と連合する→結果として、BはAのパロールを理解する→今度は役割の交代が生じて、Bが脳裏に特定の概念を浮かべる→そして……(以下略)、という具合に <コミュニケーション >の過程が進んでゆくのだと言います。

 間違えやすい一点に注意を促したいとおもいます。このモデルにおいて、<聴覚イメージ>という、心理学の用語を思わせる語が遣われていますが、後に<音素>概念として洗練を施されることになった経緯に鑑みて、<聴覚イメージ>とは、感覚された音の<形相>です。他方、<概念>は理念的なものですから、やはり形而上学的身分としては<形相>に他なりません。概念が思考のプロセスとして外在化されることを容認しているところから判断すると、ソシュールの形相主義は概念実在論だと言えるでしょう。

 さて、このコミュニケーション・モデルが含意している言語にかかわる存在論的想定を取りだしてみましょう。

 第一に、コミュニケーションとは、ある人物の思想をなんらかの意味で物質化して他の人物に送りとどけることだ、という理解があります。後年このモデルは「導管の隠喩」(conduit metaphor)〔「導管」とは、水道管とか、ガス管のように物質を一方から他方へと導く管のことである。〕と呼ばれることになりました*。ここではコミュニケーションがまるで宅配のように見なされています。ちなみに、導管の隠喩は記号環境論の観点からすると出来損ないの比喩だとおもえるが、いまこの点は問題にしないでおきます。
*M. Reddy, ‘The Conduit Metaphor,’ in A. Orthony (de.), Metaphor and Thought, Cambridge: Cambridge University Press, 1979.

 問題にしたいのは、このモデルにおいては、言語の本態(本当の姿)が、意味をもつ音声と捉えられた点です。言語音を構成する音素は形相として不可視であり、意味としての概念もやはり不可視であり、観察できる言語の事実といえば、音声(sound)以外にはありません。もちろん例えばクシャミとは異なり、この種の音声は意味を有しています。問題は、言語音(linguistic sound)なのです。

 この種の音声は一揃いの基準によって同一指定されるかぎり、明らかに事物ないしモノの存在性格を有しています。これはソシュールの記号概念から、常識的なそれへの舞い戻りではないでしょう。だからこそ、ソシュールはその形相主義=形式主義の原則から、パロール言語学の対象から排除したのでした。

 しかし、われわれは言語音がモノになったことを批判しているのではないのです。われわれにとって問題なのは、この種の音声が単なるモノとしてしか概念化されていない点です。モノであることと、単なるモノであることとは大違いだからです。

 第二に、 Aから Bへ<思想>が容器に収められて配達されるためには、 Aと Bとがあらかじめ――ソシュールの用語を遣えば――同じ「ラング」を共有しているはずです。上記のように、おのおのの言語記号は厳密な基準によって同定されるモノであり、それらが構成する <言語記号のシステム >としての <ラング>もまたモノでしかありません。要するに、言語は――細部から全体にいたるどこのレベルでも――事物あるいはモノに過ぎないことになりました。

 中間的な結論と展望
 ソシュールパロールを排除した地点から言語音の方へ引き返さなくてはならないと思います(反形相主義)。しかし、パロールを単なるモノすべきではありません。言語は基本的にモノとしての音声を産出する身体の動きであり、音声はこの身体運動へ統合されるべきです。パースに記号過程(semiosis)という考え方があります。つまり記号とは<ある種の効果を世界の中にもたらす動き>にほかならないのです。記号とは記号過程なのです(反質料主義)。
 記号過程がそのまま記号(ここでは言語)であるなら、この過程に介在するあらゆる要因を無視すべきではないでしょう。音声言語の場合、記号過程としての言語は当然のことながらモノとしての言語音を産出します。しかし所産であるモノとして言語音がすなわち言語のすべてであるかのように受け取るのは間違えです。言語音のいわば背後につねに身体の動きが伴っている点を見過ごすべきではありません。  (つづく)