言語の実像を作り直す (3)

namdoog2007-04-24

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 正統的言語探究が描出してきた言語イメージに拮抗しうる、ほとんど唯一の言語の像を提出した者の代表格として、メルロ=ポンティ(M. Merleau-Ponty)をあげることができます。

 彼によれば、正しく概念化された限りでの発話――彼はそれを「語る発話」(parole parlante)、ときには「原初的発話」(parole originelle)とも呼んでいますが――は、<仕草>(geste)のようなものである、と言います。彼が言うgesteというものは、表情ないし表情をはらんだ身体の動きのことです。言い換えるなら、彼は言語という記号過程を身体の振る舞いになぞらえるわけです。あるいは、言語は所作の類比(analogie)だと言うのです。こうした異色の言語理解を、今後、「言語と所作の類比理論」(簡単には「類比理論」)と呼ぶことにしましょう。

 先に確かめたように、言語はモノの一面をもちます。しかし全面的にモノであるわけではない。モノとしての音響(=物理的出来事)は、本来、身体の動きにともなうその産物に過ぎません。あまりいい表現ではないのを承知で言うと、モノとしての音声の背後に身体の動きそのものを透視する必要があります。いや、言語音はそれがただちにモノであると同時に身体の動きである筈です。こうして、言語音とは基本的に身体の表情ある動きに他なりません。

 類比理論は理論とは呼べない単なる比喩なのでしょうか。あるいは、理論を説明するための便宜に過ぎないのでしょうか。決してそうは思えません。類比理論を真面目に受け止める必要があるでしょう。そこから言語のイメージを新たに描くことができるのか、できるならその描像はどうなるのか。以下ではそうした設問に応じてみることにします。

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 いよいよわれわれの話しは佳境に入ることになりました。<言語音の機能的生成>という観点から、言語が生まれいずる次第――言語の生成に関する形而上学的な物語――を語ろうとおもいます。

 心理学者の観察によると、指さしという記号論的身振りをなしうるようになった幼児はほぼ同時期に言語音を口にできるようになるそうです。それは、9ヶ月〜1歳くらいの時期のことです。それ以前には、幼児は<喃語>(babble)(つまり、まだ言語とは言えない段階の多様な発声)や<音声模倣>を盛んに行います。それはあたかも言語音を制作するための準備運動のようなものです。心理学的観点から言えば、これらの身体運動は言語の個体発生に関して重要な意義をもっています。しかしわれわれが問題にするのは、その種の経験的発生ではなくて、<機能的発生>の形而上学的な機序(メカニズム)にあります。そのために喃語などの問題には、ここでは言及を控えることにしましょう。

 ある場面を想像してみて下さい。(この前半部は私自身が経験したことがらですが、後半部は作り話です。)よちよち歩きを始めたばかりの太郎君を公園で遊ばせていたときのことです。鳩の群れが一斉に舞い降りてきました。太郎君は鳩の群れを認めるや否やすぐさま手を鳩の群れの方向へ上げ、そちらへと歩き出しました。見ると、片方ではなく両方の手が上がっています。しかし平行に上げられているのではありません。<指さし>の典型的形態は出現していませんが、確かに人差し指は伸ばされており、どれかの鳩に触ろうと手を伸ばしている風にも、鳩を捉まえようとしている風にも見えます。

 そのとき大人は確かに聴きとりました。太郎君が /ポッポ/ という音声を口にするのを。(この斜線の表記は、音韻論で音素を表記するやり方です。)

 この観察について3つの注釈を加えたいと思います。

(1) この音声はすでにして<言語音>(linguistic sound)であるという点です。ということは、そのあり方は、純粋に私的なものではないし(=他者との関わりが介在している)、反対に、純粋に対象的なものでもない(=太郎君の体重のように)ことを意味します。太郎君が構音と調音のプロセスを介して自発的に作り出した(≒意図的に作り出した)音声であるかぎりで、この/ポッポ/には何らかの主観性が認められまするが、同時に、その音声はまずもって太郎君本人が聴取し、その場に居合わせた大人が聴取することなしには<言語音>ではありえません。その意味で、この音声は相互主観的な様態――いっそう適切には、相互身体性(intercorporalité)――をとると言うべきでしょう。

(2) 言語学の観点から見ると、この語は、複数の意味次元をそなえる限りで、大人の<単語>とは異なります。この子にはまだ構文論(syntax)の能力がありません。つまり語彙をつなげて文を産出する能力です。構文論が未発達ですから、この言語音は大人の言語の<単語>ではないわけです。にもかかわらず、幼児は純粋にある対象のカテゴリー化を遂行しているのでもありません。例えば幼児の言いたいこと(発話の意味)は、「あの鳩は可愛いなぁ」ということかもしれないのです。結局、幼児の言語音は<一語文>(mot-phrase)というある種曖昧な表現だとしか言えません。
 メルロ=ポンティのテクストから引用しておきます。「発達心理学者グレゴワールの息子が最初の言葉を口にしたのは、家の前を通過する汽車を指さしながらであった。それは、いくつかのもの(汽車、通過によって惹起された情動など)からなるただ一つの全体に割り当てられた特別誂えの語であった。」(Merleau-Ponty,‘La conscience et l’acquisition du langage,’ dans Merleau-Ponty, Melreau-Ponty à la Sorbonne, Cynara, p.18. (メルロ=ポンティ,『意識と言語の獲得』(木田元・鯨岡峻訳)みすず書房,1993)、pp.18-19.)

(3) われわれは太郎君が初めて口にした言語音を/ポッポ/という音韻として記述しました。しかし、生起したこの言語音が実際に/ポッポ/なのか、という問い立てがいぜんとしてできるのです。これは奇妙なことだと思われるかもしれません。しかし、言語の形式性には本来的なゆらぎの要因が潜在している点を見過ごすのは間違えです。前述のように、ソシュールは、パロールとラングを峻別し、ラングを<言語記号のシステム>(système de signes linguistiques)=共時態(le synchronique)における形式的体系として設定できると信じました。それというのも、ラングをパロールから切断できると考えたからです。しかしこの断定は取り返しがつかない過ちでした。

 こうした<分離>(segregation)は原理的に不可能です。単純な言い方かもしれませんが、パロールの個人性や偶然性と評価されたものは、言語の質料としていつまでも、潜在性においてラングの構成要素の資格を保持しているのです。このかぎりにおいて、<ラング>は純粋な形式性ではありえません。論より証拠です。もしそうでなければ、語彙の意味変化(semantic change)や音韻変化(phonetic change)、あるいは文法化(grammaticalization)などの言語現象が説明できなくなるでしょう。すなわち、言語の<歴史性>が不可解に化すでしょう。

 太郎君が口にした /ポッポ/ という分節音には、もしかすれば分節音として他の形式性をそなえたかもしれず、いつかまた他の形式性をとるかもしれない、という潜在性がつねにともないます。この潜在性は、主として言語音を統合的に構成する他の部面――プロソディーと非音声的身体運動――に根ざすものです。従って、この事態を直視するとき、言語音の表記法に工夫をこらす必要があると痛感されてきます。適切な表記法とはどのようなものなのでしょうか。  (つづく)