記号主義倫理学の可能性

namdoog2007-02-16

 記号主義は認識論や存在論などの分野に深い関係があるが、じつは倫理学とも関係がないわけではない。それどころか、記号主義的な倫理学へのアプローチを主として認知意味論者(Johnson、Sweetzerら)が試みて興味ある成果をあげている。
 筆者の見るところ、この種の試みには豊かな将来性があるとおもえる。<記号主義倫理学>がいまよりさらに確かな基礎に立って応用倫理学へ寄与することができたら――部分的にはすでに実現しているが――20世紀以降の倫理学の歴史に新たなページを書き加えることになるだろう。なぜなら、記号主義倫理学はその自然主義のゆえに、ムーアの<自然主義的誤謬>という強迫観念にさいなまれている現代の倫理思想を超えることが可能だからである。かつて筆者はこうした問題意識をもって、<自慰>に関する倫理学的考察を書いたことがある。このたび機会があって新たな論点を追加したうえで、コンパクトに筆者の考えをまとめてみた。詳しい歴史的データをあげることができなかったのは残念だが、考え方そのものを理解していただけるとありがたい。

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         自慰(〔英〕masturbation 〔独〕Onanie) の小倫理学

<自慰>の定義と名称 
 <自慰>を厳密な意味で定義するのはそれほど簡単なことではないが、ここでは以下のような定義を採用して問題に関する倫理学的議論を始めることにする。定義が多少とも粗雑であっても、以下の議論に重大な支障をもたらす懸念はないようにおもえるからだ。さて自慰とは、自分の生殖器を指などの身体器官や何らかの用具を使用して刺激することで性的快感ないしオーガズムを得ようとする行為である。
 この定義をめぐり、二三の補足をしておこう。まず、<自慰>は男女の性別にかかわりのない行為である。洋の東西を問わず古い文献、たとえば戦前の文献で自慰が問題とされる場合、自慰という行為の主体が男であるという想定がほとんど無自覚で設けられていた。もちろんこれは神話の類といわざるを得ない。自慰する女性は(あたりまえながら)いる。第二に、<自慰>は第二次性徴期を中心とする青少年期に特徴的な行為と言い切ることはできない。例えば精神分析の文献には幼い女児が下腹部を家具に押し当て自慰する事例が紹介されている。また現代社会に多いというセックスレスの夫婦が自慰にふけるケースもありうる。(このケースには後述のように微妙な倫理学的問題が付随している。)最後に、<自慰>を呼ぶ表現にはさまざまなものがあるという点に注意が肝要である。これは<自慰>の定義に関係ないどころか、真実はその逆なのである。自慰をどのように称するかという言語的事実のうちに、ある種の倫理的含意が伴うからである。
 日本語では見出しに掲げた二つの外来語をそのまま音読みして<自慰>と同義の語として遣ってきた。それぞれに多少の説明を加えておく。「オナニー」というドイツ語が<自慰>を意味するのは独特なレトリックのためである。『旧約聖書』創世記38章にオナンという男が登場する。兄が若くして死んだため、オナンは兄嫁タマルと結婚させられたが、子を残すことを嫌い膣外射精して避妊しようと企てた。オナンのこの行為は自慰と少なくとも一つの共通要素(無駄に精液を漏らすこと)をもつ。この点で自慰とオナンの行為(オナニー)は類似する。すなわち、<オナニー>は<自慰>の隠喩なのである。
 「マスターベーション」はラテン語masturbariに遡る語である。この語は、一説によると、manas(手)+stupare(汚す)が語源だという。ふつうの英語としては<性器を手で刺激して性的快感を得る>という語義をもち、明治期に<手淫>と訳された。悪くない訳ではなかろうか。ところで、漢字の<淫>は明らかに倫理的悪を含意している。例えば「姦淫」は<不正な男女の交わり>をいい、「淫蕩」とは<酒や女色に溺れるなどの悪行>をいう。同じ時期にこの横文字は<自涜>とも訳された。漢字の<涜>は「冒涜」の例で分かるように、<汚す/汚れる>という語義をもつ。この<汚す>は字義的にものを汚くすること(例えば、床を泥で汚すこと)を言うのではなく、倫理学的隠喩である。だから、<自涜>とは<マスターベーションという悪徳で自らを道徳的に汚す>という意味なのである。

悪としての<手淫>
 マスターベーションとオナニーは、キリスト教化された西洋の歴史を通じて最近まで表向きには倫理的悪とされてきた。おまけに法律で罪と規定された時期もあったという。これにひきかえ、近代以前の日本で<自慰>が倫理的悪とされた形跡は乏しい。むしろ<自慰>は男女の別なく性欲を満たすためのやむを得ない手段あるいは遊びの類いと見なされてきた。男の自慰は江戸時代に<せんずり>とか<かわつるみ>などと俗称され滑稽さをこめて描写されることはあっても非難されはしなかった。女性の自慰のための各種の道具(現代の<大人の玩具>)も考案され売られていた。
 以上から、時代や文化の違いによって<自慰>が倫理的な評価を変えるという事実が判明する。この事実を日本社会に観察を限ってやや詳しく見ることにしよう。
 明治以降の日本に話を限るなら、<自慰>はまず倫理的な<悪徳>(vice)として口をきわめて非難された。一例として、大正時代の性教育の教科書を引用しよう。

手淫は悪である。なぜかといえば、身体の健康をはなはだ損なう上に、なによりもこの行為が純潔を犠牲にして快楽を恣にするからだ。(金谷幸太郎『性欲教育』、藤田文林堂、1914.)

 高等科の生徒を教える金谷はこの本に性教育の実践記録を載せている。男子生徒46人のクラスで「修身」の時間に実施されたその授業の狙いは、「生殖器を弄んではならない」という道徳のルールを教える点にあった。

少年としてこれほどの罪悪はない。手淫は人間の成長の源泉となる精液を消耗するばかりか、結果として身心の発達がいちじるしく阻害され、神経衰弱になり、甚だしきは一命を失うということさえある。(同書)

(これが教科書だったとは驚きのほかはない!しかし誰が金谷を嗤うことができよう。)前述のように、<手淫>の名がすでに悪を示している。(ちなみに<自慰>という倫理的に中立な用語は、性の科学研究を志した小倉清三郎が1922年に創ったといわれている。)
 当時の日本文化において性的行動が認知される仕方は――この面にかぎって――西洋と大差なかったという見込みがたつ。上の引用文のなかでとりわけ注意を惹かれるのは、「この行為が純潔を犠牲にして快楽を恣にする」という箇所である。<手淫>が悪いのは、それが「身体の健康を損なう」ためでもあるが、それにもまして「純潔」が汚されるという理由のためなのだ。この<純潔>の概念としての内容を分析するのは必ずしも容易ではない。しかし、文脈に照らすと、<手淫>が性的快楽を得るために生殖を性的行為から切断する手段である点が重大な意義をもつとおもえる。換言すれば、性的快楽を自己目的とする点に悪の徴候を見ているのである。

道徳的認知と自慰
 この事例を絶えず参照しながら、一般に<道徳的認知>がどのようになされるか、それを理論的に調べよう。ここで参照するのは、認知意味論者の提唱する<認知モデル>という考え方である。
 われわれは種々のカテゴリーを用いて世界の事物を分類し秩序づけることをする。認知意味論者は、おのおののカテゴリーが<認知モデル>と関連することによって意味をなすと考える。認知モデルは一方でアプリオリな概念・図式・命題からできているが、他方で社会・文化・歴史の文脈に規定される面もそなえており、その意味で総合的(synthetic)でもある。レイコフ(George Lakoff)は認知モデルの特にアプリオリな面に着目して<理想的認知モデル>(Idealized Cognitive Model)という考え方を提唱した(G. Lakoff, Women, Fire,and Dangerous Things, Chicago: The University of Chicago Press, 1987.レイコフ『認知意味論』(池上嘉彦他訳)、紀伊國屋書店、1993.)。
 <理想的認知モデル>とは、われわれが事物を特徴づけるときに利用する組織化された知識構造であり、人がふつうの場面でふつうに行動するという事態を制約する規範性(理想性)をそなえた知識構造をモデルとして取り出したものである。
 現代では<手淫>というカテゴリーは衰退しいまや同じ身体行動が<自慰>に代替されてしまった観がある。かつての手淫が道徳の主題であったとすれば、自慰はせいぜいマナーやエチケット程度の重要度しかもたなくなっている。
 moral(道徳)の語はラテン語のmores(習俗)に由来する。習俗はわれわれに行ないの良し悪しを教える(例えば、死者を哀悼し葬るために社会は人にそれなりの正しい振る舞い方を指定している)。左方の極として純粋に内面的な道徳があり、右方の極に常套的な儀式的振る舞いがあることから成り立つスペクトルを想像してみよう。このスペクトルの構造はじつはもっと複雑であるが、いずれにしても確かなのは、かつての<手淫>のこのスペクトル上の位置はいまやずっと右方向へ移動して<自慰>としてカテゴリー化されていることだろう。
 かつての<手淫>にしても現在の<自慰>にしても、それぞれの理想型には次のような徴候がそなわるのがわかる。
a)性的快楽を目的とした行動 b)常習的な行動 c)自己刺激 d)しばしば性的
空想を伴うこと e)幼児期に発現し青年期あるいはそれ以後まで恒常的に起こるということ

 <手淫>に対応する認知モデルを分析するには、日本におけるこの種のモデルが比較的短期間に西洋から移入された文物とともに伝播し、修正され日本文化に受容されたという仮設をもうけることが妥当である。詳しい論証の余裕はないが、この仮設の傍証として、1)前述のように、伝統文化において<自慰>は必ずしも道徳的に負の価値を負わされてはいなかった、2)金谷の引用に見るように、手淫に関する言説が主として<医学>と<教育>という二つの領域に帰属しており、明治以来、これらの領域を欧米から直輸入された言説が覆っていた、3)欧米から輸出され我が国にもたらされた言説の底流にキリスト教道徳(あるいはその世俗化としての市民道徳)があった――これらの点を指摘できる。

<自慰>の認知モデルの変容
 こうして考えてくると、<手淫>の理想型に対応しこれを意味づける認知モデルを少なくとも以下の命題や規範からなるネットワークと見なすことができる。繰り返すと、これらが経験を組織化するアプリオリな概念化である点に注意が必要である。
・1 生殖のためになされる性的行動だけが正常である。
・2 性的行動がもたらす快楽は、行動に同意した成人男女のペアが共有する場合に限って道徳的に正当化される。
・3 (そうであっても)性的行動に耽溺するのは悪である。
 1の命題の含意として、性的に未熟な子供の性的行動はそれだけで異常であることになる。子供には生殖能力が無いからである。就学前の幼児の自慰は現在でもとくに母親の嫌悪の的であるが、その理由は認知モデルのこの要素であろう。1が手淫を道徳的に忌避するのは自明である。自慰によって射精する男子は1および2によって異常であり悪徳に手を染めていることになる。セックスレスの夫婦のいずれかが自慰にふけることは単にエチケット違反ではない。2の含意として、それは不道徳な行ないとして非難される傾きにある。<手淫>の認知モデルはいまだに根こそぎにされたわけではない。
 現在では自慰は、身体医学の見地から、発達しつつある子供の第二次性徴ないしそれとセットになった自然な行動と見なされている。精神分析は子供を性的な存在とみなす見地の確立に多大の影響をふるった。認知モデルの構成に効果を及ぼすこの種の趨勢のうちとりわけ重大なのは、旧来の<手淫>のモデルの1が意味機能を喪失したことだろう。そして2も現在ほとんど崩壊してしまった。(ここで深入りはできないが、表の道徳と裏の道徳というダブルスタンダードが問題化する。)性的行動と生殖との自然な紐帯が切れてしまったのである。
 <自慰>の事例を観察すればわかるように、認知モデルは歴史的不連続性におかれている。自慰は悪だという道徳的評価を基礎づけ、ここから医療と教育の処方をひきだしていたかつての認知モデルは、新たに成長したもう一つの認知モデルに徐々に侵食され消失しようとしている。我が国で自慰の認知モデルにおける死と再生のドラマが演じられたのは、おそらく経済の高度成長期のころだったと推定できる。
 それはあたかも、ウイルスに感染した生体のあらゆる細胞が異常な増殖と変質を重ねてゆき、その過程のただなかからまったく異なる別の生体が誕生することに譬えうるだろうか。<自慰>はたいていの場合すでに悪ではない。しかし人目のある場所でそれにふけるのは見苦しい所作であり、マナー違反なのである。ちょうど往来で人の目があるのに放尿するように。しかし、マナーがどこかで道徳律に接点を持ちつづけることを忘れてはならない。
 こう言うことは、認知モデルの相対主義を主張することにはならない。モデルの歴史的非連続性は事実である。だが重要なのはその非連続性そのものではなくて、モデルの断絶と移行を同時に生成する普遍的認知メカニズムなのである。もちろんこの普遍性は人間の本性(human nature)に属している。換言すれば、認知モデルはたしかに相対的であるが相対主義的ではない。モデルの変異(variations)は人間性の変異可能性(variability)の表現であり、人間性の違いではない。 (了)