ユクスキュル・ルネッサンス (4)

namdoog2007-01-23

 文献①〔「環世界論の研究」(思索社版『生物から見た世界』に所収)〕において、トゥーレ・フォン・ユクスキュル(T.v.Uと略す)は、環世界論の意義を何よりも<主体>概念を自然研究に導入した点に見出していた。彼の議論を手がかりにして、環世界論についての考察を深める努力をしてみたい。
環世界論の準全体論的性格
 彼によれば、物理学に代表されるいわゆる精密科学は20世紀に著しい発達を見たが、その成果は生命科学と十分に関連づけられていないという。この状況は50数年前にヤーコプ・フォン・ユクスキュルが<環世界論>の基礎を築いた当時といささかも変わるところがない(①が執筆されたのは、1970年頃である)という。T.v.Uは、環世界論にこの関連づけの嚆矢を見出す。その際、重要な概念としてクローズアップされるのが、<主体>としての生活体という見地である。この点を少し詳しく述べてみよう。
 環世界論にとっての<主体>は固有な法則に従いつつ、主体的な知覚標識と作用標識によって主体的な世界を構成している。この意味において、生活体の主体とは<自発性の中枢>なのである。しかし、この表現が意味するものを精確に捉えなくてはならない。
 環世界論における<主体>は――古風な形而上学的な表現を遣っていいなら――何かしら<絶対的な実体>ではなくて、主体が作用を及ぼす客体をも共に包み込んだ<全体>としての広汎な秩序関係に含まれた<部分>である。ここでいう「広汎な秩序関係」と環世界とは別のものではない。この世界における<主体>は、輻輳する関係の力線が交叉する点という意味においてだけ<中枢>なのだ。<主体>とは絶えざるプロセスとしての構造の造形力に他ならない。あるいは主体とは、働く構造体なのである。
 読者はここに環世界論の全体論(holism)に準じる性格を認めるだろう。一般に全体論とは、部分に対する全体の優位を強調する学説である。例えば、ゲシュタルト心理学全体論の好例である。人が何かを知覚するとき、知覚された部分的要素の総和として全体としての形態の知覚が成り立つのではなくて、逆に全体としての形象つまりゲシュタルトがまず知覚され、その後に部分的要素が析出されるに過ぎないのだ。
 さて、環世界論の場合に問題なのは、主体とそれが知覚や行動のうちでかかわる対象の総和として環世界(もちろんそこには主体が含まれる)が構成されるのではなくて、まずもって、主体と環世界とのペアが全体として成立するのであり、その後に主体や対象(客体)が全体の場のなかに析出されるという点である。この限りにおいて、環世界論は全体論的である。
 しかし環世界論における全体論的性格は比較的に穏健なものである。それゆえ、それを呼ぶのに「準全体論的」なる形容詞が用いるのがいいだろう。この<準>というハンディの意味するのは、主として、1)主体や客体の、全体(環世界)に対する相対的自律性をある程度認めなくてはならないこと、2)主体と環世界との調和的な共働性(synergeticness)が不測の要素によって攪乱される可能性がつねにあること、を表している。
 ちなみにT.v.U は環世界論の全体論的性格を強調するのに急であって、それが厳密には全体論とはいえない、いや、そういってはならない点を看過している。環世界論を<準全体論的>(quasi-holistic)と性格づける見地は筆者のオリジナルであることをお断りしておきたい。これは些末な差異ではなく、存在論の根幹にかかわる枢要な論点である。
 生活体(生物)が環境内で事物や出来事をどのように経験しているかという問題は、T.v.Uの言い方を借りると、<主体と環境中の対象を結ぶ線とそこから網状に広がる関係の場の配列>の問題である。この網状の配列(ネットワーク)のことをしばしばユクスキュルは、音楽の比喩を用いて、オーケストラの<総譜>になぞらえた。環世界を構成するおのおのの存在者は――生けるものも無機的なものも――それぞれが固有のトーンを奏でている。
 環世界論における音楽の比喩は本質的なものだと思える。比喩はしばしば交錯のうちで反転する。例えば、恋情を炎に譬えるとき(例えば「恋の炎が燃え上がった」)、逆に、炎が恋情に転化する(例えば「燃え上がる炎は恋の激情のように烈しかった」)。環世界が楽の音を奏でているというユクスキュルの比喩的直観は、逆に、字義的な意味での<音楽>を世界の奏する存在のトーンと解釈する道を拓くだろう。しかしこれは当面の問題ではない。(拙論「記号の精神からの音楽の誕生」、『恣意性の神話』第8章、を参照されたい。)
 総譜として復元された環世界はたしかに研究者の主観的産物といえるかもしれない。というのは、世界には主体の側から座標系が付与されるのだし、主体のこの世への到来と共に発生し消滅するからである。しかし自律的な主体が恣意的に環世界を構成したわけではない。自然科学者ユクスキュルは、根本的には主体が自然の一部である、という確乎とした理解を保持していた。自然には主体と主体によって客体化されるものとを共に包み込む構図がそなわっている。
環世界論における目的論的機能主義
 父のユクスキュルの意向を引き継いで、T.v.U は大胆にも、物活論や神秘主義から離れた、<自然の計画性>あるいは<構成計画>(Bauplan)という概念を環世界論にとって必然的な論点として打ち出している。環世界論は、全面的に惰性化され機械仕掛けに還元された<世界>の観念とは一線を画する。その形而上学的性格をどのように詳細に規定したらいいのだろうか。これは今後の課題としなくてはならない。しかし少なくとも、環世界論が、<生命価値>のアプリオリを容認するある種の目的論的性格を有することは、否定できないだろう。それはまたある種の機能主義の立場でもある。T.v.U の文献①からの引用をおこないながら、この点をやや詳しく見てみよう。
 従来の自然科学は、世界が個々の要素(陽子、中性子、電子など)から成り立っており、要素間のつながりは、単に個々の要素の相互作用によって生じるという前提を設けてきた。生物もこの例外ではない。その体躯を形成しているのは個々の要素であり、それゆえ生命現象もまた、構成要素の相互作用に還元することができる。個々の要素とそれら相互間の作用をこえた総合的・全体的な関係といったものを想定することは意味がない。
 ところが、環世界論の前提はこれとは異なる。自然は総体として一つの<全体>であり、そこに包含された部分的要素はこの全体によって規定されるのであって、部分の総和が全体を形成するのではない。ここに<自然の計画性>を認めなくてはならない。もっとも、「この計画性の内容と構成はわれわれにとって未知のものである」のだが。しかし重要なのは、この<構成計画>が自然研究の方法上の原理となるという点なのだ。「(この方法)の助けによって研究者は、自分が人間の眼で観察した素材から、動物にとって意味を有する事実のすべてを選別しうるのである」(思索社版『生物から見た世界』、276頁)。
 次のような批判が環世界論に対してなされてきた。この学説は自然の構図における計画性を前提にしながら、計画性の起源の問題を放置している、と(同、268頁)。T.v.U はこれに対して再批判を行っている。計画性の起源の問題は、その内容の問題とは独立である。重要なのは、計画性の内容であって、その起源という神学的問題ではないのだ、と。このように見てくると、環世界論がある種の目的論に依拠しているのは明らかであろう。しかも注目すべきは、この<目的性>は生活体の<機能>とのかかわりで規定されている点だろう。
 ユクスキュルは『水生動物の実験生物学的研究入門』のなかで、次のような趣旨のことを述べている。「動物の営みは一般的に以下の図式に要約することができる。1)外界の作用を受容する器官つまり受容器(Rezeptor)、2)運動や分泌という形で現れる反作用を行う器官つまり効果器(Effektor)、3)これらの二者が行う機能の関係。さて問題は、この3)を確定することである」そして「機能に物質やエネルギーが関与するのは確かである。しかし<機能>の内容を確定するものは、これら物質的交換ではない。それはむしろ、物質的交換そのものを結び付けている形式なのである。この形式を明らかにするのが、環世界論にほかならない」と。
 以上に、環世界論の依拠する<生物学的機能主義>を明瞭に見て取ることができるだろう。他の場所でT.v.Uは、1)と2)を媒介するものは何かと自問して、こう答えている。受容器と効果器をつなぐものは「生物体全体の利害関係の中に」捜されるべきものである。このつながりは、「器官の構造や配列において証明されるはずの、大きな普遍的な内面的関連」なのである、と(同、278頁)。(筆者として言及を抑えかねる点がある。それは、最近のミリカン(Ruth Garrett Millikan )の業績と環世界論との比較が、ここに興味深い課題として浮かび上がってくるという事実にほかならない。ミリカンが<言語>という人間固有の行動に照準しているという方法論上の著しい特色は、この比較の意義を損なわないとおもえる。なぜなら、彼女において、<言語>は<言語以前>の表現行動と切断されてはいないからである。)
環世界論は相対主義
 ここでわれわれは、<環世界論と相対主義>という論題に逢着するだろう。おのおのの動物種はその種に固有な環世界に住んでいる。例えば、人間が住む環境とハエの住む環世界とはその構成も性状も違っている。なぜなら知覚=行動系としての人間は人間独自な知覚標識と作用標識からなる機能環をもち、ハエはハエ独自な機能環をもつのであって、この二つは構造も働きも別々だからである。そうであるなら、ある種に固有な環世界と別の種に固有な環世界とはたがいに通約が不可能である(incommensurable)ことになるのではないだろうか。(<通約の不可能性>とはこの場合、二つの環世界の性状や構造を同じ基準で比較することができないことを意味する。)
 この問題に関して、さきに筆者は<対称性を非対称的に生きる>という概念でその解決を図ろうとした。実際にユクスキュルは、この問題をやはり音楽の比喩によって解決が与えようと試みた。すなわち、異なる環世界は全体としての大文字の<自然>のうちで<対位法>をなすのだという。
 <対位法>とは、作曲技法のひとつである。ある音に対して別の音を対置するようにして、二つ以上の旋律を組み合わせてポリフォニーを構成する技法のことをいう。この比喩が卓越していることは誰も否定できない。だが由々しい問題は、あらゆる環世界の奏でる対位法を自然そのものの構成原理として統合する権能が、環世界の内部に住む人間に与えられているという想定に理論上の無理があるということだ。<自然の計画性>を見抜きその旋律を聴取することができる存在がいるとすれば、それは神のような存在ではなかろうか。
 環世界論は――それぞれの種に固有な環世界の間に通約の可能性がないという意味での――皮相な相対主義ではない、と筆者は考える。なぜなら、おのおのの生物種は、事実上、たがいに相互行為とコミュニケーションとをおこなっているからである。卑近な例をあげよう。人間と犬との間に「心の交流」があることを誰が否定するだろうか。もちろん犬に対する過剰な擬人化という過ちの事例は多い。ディズニー社のアニメもそうだが、ペットをまるで人間同然に処遇することで犬をむしろ害する飼い主が何と多いことか。それにしても、イヌの環世界と人間のそれとが部分的に重なっていることまで否定はできない。この重なりは必ずしも単純ではない点に難しい問題がひそんでいるのだが。
 そうはいっても、人間と例えばミミズとのコミュニケーション、あるいは有名なユクスキュルのあのダニとのコミュニケーションを想像することは難しい。ただしここに原理的な困難を見出すのは性急すぎるだろう。例えばアリなどの社会性昆虫は化学物質のやりとりでコミュニケーションしている。重要なのはその実態が人間にはかなりの範囲で解明できていることである。したがって、化学物質を巧みに使用することで、将来の人間はアリとかなりの程度コミュニケーションできるようになるかもしれない。いや、この種のことはすでにある程度実現している。
 一般的に言って、人間と人間以外の生物種との相互行為やコミュニケーションがいまはできないとしても、生命科学の一環としてのコミュニケーション科学が発達しそれに技術的手段が伴うことによって、ダニやサソリやタコなどとかなりの程度自由に「会話」ができるような時代が到来するかもしれないのである。そうであるなら、環世界の相対主義の主張については、相当程度その信憑性を割引して聞かなくてはならないだろう。しかも大事な論点は、この種のコミュニケーション科学には、ユクスキュルの環世界論にあるいは伏在するかと疑われる<神の視点>が必要ないということだ。
 環世界論と相対主義の問題に関しては、引き続いて考察してみたい。   (つづく)