ユクスキュル・ルネッサンス (5)

namdoog2007-01-30

環世界と世界――相対主義との関連で
 ユクスキュルの環世界論が、哲学的視点からいって<相対主義>――さしあたり、認識の相対主義と実在に関する相対主義――を招来するのではないかという懸念は、<環世界>の存立がおのおのの生物種の存在構造によって規定されているからである。この点をいま一度確認しておこう。
 大きくいえば、自然に内在する構成計画(Bauplan)が環世界を創出するとユクスキュルは考える。しかし個別的な環世界は、知覚=行動系としての生物の営みに生成の根拠を有している。こうした事態を明瞭に示すのが、ユクスキュルの<機能環>という考え方である。(この概念は、当面は<相対主義>との関連で取り上げられているが、じつは<内部存在論>との関連でも重要な意義を有する。この点は後述の予定。)
 機能環について、ユクスキュルはおおむね次のような言い方をしている。「あらゆる動物主体は、やっとこが二本の腕で物をはさむように、客体を掴んでいる。一方は知覚の腕であり、他方は作用の腕である。この二つの腕の働きが客体に知覚標識と作用標識を付与する。そしてこれらの標識は互いに影響を及ぼしあう。すなわち、ある知覚標識が作用標識を喚起し、これが知覚標識を消去することで、別の知覚標識を生み出す・・・という具合なのである」と。
 彼の主張の真意は、有名な機能環の図式を眺めるとき、はっきりするだろう。(岩波文庫版、19頁を参照。)ユクスキュルはカント学徒であるとはいえ、専門的哲学研究者ではない。それゆえ哲学的思弁に関しては委細を尽くした議論を期待することはできない。読者はいわばユクスキュルのテクストの行間を読まなくてならないし、テクストが提供する図式や挿絵などを哲学的観点から読み込む必要があるだろう。
 読者はこの図式に、受容器と実行器を両端とする、ほぼ円形をした図形が描かれているのを見るだろう。これは任意の生活体ないし動物個体を模式的に表現するものだ。ユクスキュルが腕の比喩で述べているように、受容器と実行器の中間に矢羽根のような形態をした客体が描かれている。注意しなくてはならないのは、<客体>なる存在者が、生活体の外部にそれとして自存するわけではない、という点である。生活体が受容器の機能によって知覚標識をその担い手Xに「付与する」のであり、この事態と相応して、実行器がこのXに作用標識を「付与する」のだ。その結果として(そして結果としてのみ)、この場にある具体的な<客体>が構成されるのである。こうした思考様式がカントのそれに似ていることは明らかであろう。Xは<物自体>(Ding an sich)に相当するとしていい。
 しかし両者に重大な違いもある。カントの場合、対象を構成するのは<超越論的意識>にほかならなかった。意識の能動性としての<直観>の形式や悟性のカテゴリーは、ユクスキュルのいう<知覚標識>ないし<作用標識>に相当する。しかし次の点を看過すべきではない。後者はどこまでも生物学的カテゴリーに密着しつつそこから離れることがない。ところが、カント的な認識機制は、原理的に、心理学的研究にゆだねてその成否を評価することができない。なぜなら、カントの模索するのは心理学的経験の<可能性の制約>にほかならないからだ。カントの議論は<反証可能性>(falsifiability)を許さない水準で展開されている。では環世界論における事情はどうだろうか。
 ユクスキュルの環世界論は、一見すると、経験から逸脱した思弁との印象を与えるかもしれない。しかし、ユクスキュルが筋肉の生理学的研究から生物学の研究をスタートしたという逸話が暗示しているように、例えば<機能環>の概念は、従来の生理学のなかに擬似的対応物をもつ。それが<反射弓>という概念である(岩波文庫版、14頁、を参照)。〔<反射弓>の辞書的な定義をあげておこう;受容器で受け止められた刺激が神経系を介して実行器で作用をおよぼし、その作用が意志に無関係であるとき、この現象を反射(reflex)という。このとき神経インパルスの伝わる経路を反射弓(reflex arc)という。反射弓は受容器(receptor)、求心経路(afferent path)、反射中枢(reflex center)、遠心経路(efferent path)および実行器(effector)から成り立っている。〕そのかぎりで、<機能環>の概念は経験によるチェックを容認するといわなくてはならない。
 機能環という考えで重要なのは、とりわけ以下の点であろう。「主体と客体は互いに適応しつつ整然とした全体を形成する。ある動物種が所有できる機能環の総体が、その動物種にとっての環世界に相当する。おのおのの動物種は、単純なものも複雑なものも、同等の完全さで自身の環世界に適応している。」ダニにはダニという生物種に固有な環世界がある。また犬にはやはり犬に特有な環世界がある。では、人間はどうであろうか。
 環世界論において、ユクスキュルは環世界を構築するための素材としての<世界>を容認している。<世界>なるものの形而上学的身分については、古来、哲学者のあいだでさまざまに議論があった。筆者には当面この議論に参画するつもりはない。世界は事物の総体なのであろうか、それとも事物の総体を包括する全体性なのか、あるいはそれについては明確に概念化しがたいという意味で<超越>というべきか――そうした議論には立ち入らないでおこう。しかし少なくとも、環世界論における<世界>概念の特色として、次の点を指摘しておかなくてはならない。世界は――実践知との対比で――純粋な理論知が明らかにするような存在者なのである。(例えば、古代エジプトの測地術は実践知に過ぎないが、ユークリッドが研究した幾何学は理論知の典型であろう。)それは次のような含意を伴っている。
 環世界論を構想しているのは、ほかならないユクスキュルその人であるから、人間には<世界>が可能であると言っていい。しかしながら、シャンデリアめがけて飛び回るハエが「環世界論」なる概念的構築物ないし理論を所有できるとは想像のほかであろう。換言すれば、理論知は人間だけが持ちうる認識の特権的な形態なのである。(この命題をじつは筆者は疑っている。というより、ある限界の下でしか真ではないと考えている。しかしこの問題もいまは取り上げない。)ハエはそれに固有な環世界に生きているとはいえ、<世界>にはおもい至らないはずである。(ハエがある意味で<思考>することが確かだとすれば。)実際、ひとり人間だけに世界がありうるのだ。(この論点はマックス・シェーラーによって、人間は<世界開放的である>(weltoffen)として定式化され、実存哲学に継承されてゆく。)
 生活体ないし生物から独立に存立する<世界>ないし<環境>(Umgebung)をユクスキュルは自明視している。それは一方で、上述のように、<環世界>の素材とみなされる。だが他方では、いわば神の視点から見られた、あらゆる存在者を包括する、絶対的で客観的な存在のように表象されている節もある。例えば、『生物から見た世界』(岩波文庫版、60頁)には、ゾウリムシにとっての<環境>とその<環世界>が模式的に図解されている。この図からわかるのは、<環境>と称されたもの(それは別の箇所では<世界>とも言われている)とは、生物学者が観察して把握した(人間の)環世界であるという点である。
 例えば生物学に通じない素人は、この図のなかにどんな種類の生物が描きこまれているか、わからないだろう。図の左下のゴミのように見えるものは、ユクスキュルの解説によれば、ゾウリムシの食物である<腐敗菌>だという。興味深いのは、ゾウリムシの環世界の模式図において、この<腐敗菌>が<食物>という名で描かれていることだ。ところが、環境に登場する(例えば)ミジンコのような生物は、ゾウリムシの環世界ではその姿を消している。それはいまや、単にゾウリムシの動きを阻む障害物にすぎない。
 ここで<環境>と呼ばれたものが、人間(具体的には生物学者)にとっての環世界だということに注意しなくてはならない。環世界論の枠組みからすれば、これは必然的な帰結であろう。いかなる生活体にとっても固有な世界としての<環世界>がある――これは、当該理論のいわば公理だからである。そうだとすれば、第一に、ユクスキュルはどんな権利で、環境(世界)と環世界とを区別するのだろうか。そして第二に、もし彼に権利が与えられたとして、どのような基準で両者を弁別するのだろうか。これらの問いに対するユクスキュルの答は曖昧であると思える。
 筆者はここで、人間が<世界開放的である>というシューラーの命題をいわば自然主義化するよう提案したい。事実上、人間は<世界に住むこと>――<環世界に>ではない――を認識的にも実際的にもなし得てはいない。つまり<世界>の終局的で絶対的な存在構造は解明されていないのであり、現に住んでいるこの世界は、人間=生物としての種に相対的に現出している。そのかぎりで、それはどこまでも<環世界>でしかない。
 しかしながら、人間だけが他の動物とは異なり環世界との相互の働きあいを通じて環世界のあり方に変容を付け加えてゆく。人間だけが科学を所有し産業社会を創出した。100万年以前の人間の環世界と、現在の、高度に情報化された環世界とはその面目を一新している。<環世界>を限りなく<世界>へと乗り越えてゆく可能性を人間が所有する点に、筆者は人間の<世界開放性>を見る。だが<限りなく>という限定は、<真に無限に>ということを意味しない。人間は有限的存在者だからである。<限りなく>の意味するものは、<ある限界が与えられた都度、それを超えることの可能性>に過ぎない。この事態はやはり人間の<有限性>の発露というほかはない。反対から言うと、人間は真に無限なものの<経験>をもち得ない。(ただし神秘主義の正否にここで決着つけることはいまの筆者には荷が重過ぎる課題である。ちなみに、<神秘主義>とは<無限の経験>を容認する一種の認識論である。)
 さて、環世界の相対主義の問題に帰ろう。おのおのの生物種は固有の環世界に生きている。ユクスキュルのテクスト(『生物から見た世界』岩波文庫)からクリティカルな論点が表明されている箇所を引用したい。
 「われわれはともすれば、人間以外の主体とその環世界の事物との関係が、われわれ人間と人間世界の事物とを結びつけている関係と同じ空間、同じ時間に生じうるという幻想にとらわれがちである。この幻想は、世界は一つしかなく、そこにはあらゆる生物がつめこまれている、という信念によって培われている。」
 ユクスキュルの言いたいのは、おのおのの生物種に固有な環世界を横断する共通の時空の尺度などはない、ということである。ハエの生きる時間と空間は、例えば人間の生きる時間や空間との比較を絶しているのだ。比較を拒む存在者(環世界)のありかたを積極的に主張するという点で、環世界論はまさしく<相対主義>にほかならない。
 そのなかみを抽象的に表現するなら、以下のようになるだろう。すなわち、それぞれの環世界が固有の構成原理に支えられているために、それらに通有する一般原理などはない、その意味で環世界は種ごとに多数存在するのであり、相互に通約不可能である、と。この主張が、記号主義を展開したネルソン・グッドマンの<複数主義>ないし<根底的相対主義>に酷似する事実に驚きの念をおぼえる読者は多いかもしれない。さらに言うなら、この種の相対主義が、内部存在論と原理的に結びついている点にも注意しなくてはならない。
(つづく)