ユクスキュル・ルネッサンス (3)

namdoog2007-01-14

環世界論は<合理性の基準に規制された知的な探究>という意味での<科学>ないし<学問>のパラダイム転換を要請する
 ユクスキュルの環世界論について考察するためには、トゥーレ・フォン・ユクスキュル(Thure von Uexküll)の論文が貴重な手がかりになる。ここでは、アクセスが比較的に容易で、筆者が参照できた三つの論文をあげよう。①「環世界論の研究」(思索社版『生物から見た世界』に所収)、②Introduction: Meaning and science in Jakob von Uexküll’s concept of biology (Semioticca, 1982 Vojume 42-1)、③Unit of survival (Semiotica, 2001 134-1/4 )、これらである。
〔トゥーレ・フォン・ユクスキュルはユクスキュルの実子でウルム大学名誉教授、医師。以下のものをはじめ多数の著者がある。Der Mensch und die Nature(1953),Grundfragen der psychosomatischen Medizin(1963), Theorie der Humanmedizin ( with W. Wesiack, 1988), Psychosomatische Medizin (1966),etc.
 とりわけ<記号学>に的を絞った論著には、筆者は未見であるが、次のようなものがある。トゥーレ・フォン・ユクスキュルの業績は、一言でいうと、医学を踏まえた記号学的人間探究ないし総合的記号学だと想像される。我が国で彼の業績に関してまったく研究がなされていない現状は惜しい気がする。(自分で読んだら、という声がする。そのつもりでいま資料収集中です。)
Uexküll, Th. von: From Index to Icon. A Semiotic Attempt at Interpreting Piaget´s Developmental Theory. In: Bouissac, P., M. Herzfeld, R. Posner: Iconicity. Essays on the Nature of Culture. Festschrift for Thomas A. Sebeok on his 65th birthday, S. 119-140 Stauffenburg, Tübingen 1986.
Uexküll, Th. von: Medicine and Semiotics. Semiotica 61 (1986), 201-217.
Uexküll, Th. von: Endosemiose in: Semiotik, ein Handbuch zu den zeichentheoretischen Grundlagen von Natur und Kultur, Walter de Gruyter, Berlin, New York, 1. Teilband, 1997.
Uexküll, Th. von: Biosemiose in: Semiotik, ein Handbuch zu den zeichentheoretischen Grundlagen von Natur und Kultur, Walter de Gruyter, Berlin, New York, 1. Teilband, 1997.
Uexküll, Th. von: Jakob von Uexkülls Umweltlehre in: Semiotik, ein Handbuch zu den zeichentheoretischen Grundlagen von Natur und Kultur, Walter de Gruyter, Berlin, New York, 2. Teilband, 1998.
Uexküll, Th. von, W. Geigges, J.M. Herrmann: Endosemiosis. Mouton Classics, From Syntax to Cognition. Mouton de Gruyter, Berlin New York, Vol. 2, 2002.〕
 以下では主として①と②を参照しながら、引き続き環世界論について考えることにしたい。さて、環世界論が記号学の古典としての地位を確立しそうしたものとして広く迎えられるに至ったのは、トゥーレ・フォン・ユクスキュルとシービオクの功績であった。〔シービオクは1977年8月、ウィーンで、「記号学的探究の歴史において忘却された人物:ヤコプ・フォン・ユクスキュル」なる講義を行なった。これは彼の著書The Sign & Its Masters, University of Texas, 1979に収められている。〕
 トゥーレ・フォン・ユクスキュル(T.v.Uと略す)は、論文②の冒頭で環世界論の特色を次のように言い表す。それは「生命の起源と働きにおいて、記号が決定的な役割を演じるという事実を基軸とした研究」である、と。T.v.Uのこの命題は、学問論ないし科学論に対する重大な問いかけという意義をもっている。<記号学>が目新しい知的モードであるかのような世間の受け取り方は、もう廃れてしまった。これは記号学的探究にとってむしろ目出度い状況だとおもえる。しかしわれわれにとって大切なのは、T.v.Uのこの命題を言葉どおり、真面目に受けとめること、その含意を掘り下げることなのである。
 環世界論は従来の学問区分からはみ出してしまう。この点を少し説明したい。既成の学問観に従えば、科学一般はおおきく、<自然科学>(natural sciences)と<人間科学>(human sciences)とに二別される。(<人間科学>を<社会科学>(social sciences)と<人文学>(humanities)に細分する考え方もある。)ところが、記号学としての環世界論はこれらの区分のどこにも収まらない。なぜなら、<記号>という概念は、この種の二項対立を超えつつ、しかも両方をおおうものだからである。
 人文学は「主観的なもの」――例えば、感情、意欲、知覚など――を当然のこととして記述や理論のなかに取り込んでいる。例えば、ある人物が知覚によって外部の情報を取り込む結果として一定の感情にみまわれ、何か目的を志向しつつ行動する、という場面を考えてみよう。この事態を記述し理論的に説明するためには、<記号>、<意味>、<理解>などの概念が不可欠であるのは言うまでもない。
 この人物の<知覚>は生活体の神経系が関与しなくては成立しない。この一点だけからしても<知覚>は純然たる<主観的なもの>ではない。それはどこまでも<生理現象>であり続ける。(ちなみに、<生理学>physiologyの語源(physio- + -logy)を参照すると、この語が<自然科学>とほとんど同じ語であるということに気づく。)また、その行動が身体運動なしにはありえないことからして、それもやはり生理現象に属する。しかしいったん、生活体の知覚や行動を生理現象に追い込んでしまうと、そこには本来知覚や行動を染め上げていた<意味>や<理解>などの<主観的な要素>は消失してしまう。少なくとも生理学者が表立って<意味>について語ることはない。これはどうしたことだろうか。
 生理学の基礎をなすのは物理学や化学といった自然科学である。ごく切り詰めた言い方をすれば、自然科学とは、<質量>、<エネルギー>、<力>、<運動>など一定数の基礎概念の組み合わせであらゆる自然現象を説明しようとする企てだと言えよう。基礎概念のレパートリーに<意味>は登場していない。この限りで、生理学の文脈に取り込まれた知覚と運動が<意味>をいわば脱色されてしまうのは、むしろ当然なのである。それなのに、大抵の研究者が格別の痛痒を感じないのは、消失した<意味>はつねに理論の<前提>のうちに棚上げされているからである。あるいは、理論の欄外の余白に書き込まれているからである。
 生理学者は主観性を理論の実質のなかから消去して平然としている。これと対称的に、<意味>にこだわる人文学者が生理学(ひいては自然科学)に頓着しないのは、生理学のパラダイムを額面どおり容認している――つまり<当然視>(taking for granted)しているからである。
 この対称性は妥当なものなのだろうか。あるいは、この対称性は自然科学と人文学の目出度いコラボレーションを示しているのだろうか。到底そうは思えない。それが示しているのは、知的探究という意味での<学問>の基盤をゆるがす亀裂のありかであり、知性の断片化でしかないとおもえる。
 哲学史の教科書から知られるように、自然科学と人間科学との離反と対立は、かのデカルト的な身心の二元論に由来している。大雑把にいうと、人間や世界の物質的な側面を自然科学が調べ、精神的な側面を人間科学ないし人文学が調べるという流儀がデカルト以後に確立されることになった。(その哲学的認識論的表現が、新カント派の業績である。)
 しかし、二元論はスタートからある種の不安定さをともなっていた。物質と精神を二つの皿に載せた天秤ばかりのバランスはややもすれば一方に傾きがちなのである。身心の二元論という秤が物質のほうへ傾けば<唯物論>が招来されることになるし、反対に精神のほうへ秤が振り切れると<唯心論>ないし<観念論>となる。こうした形而上学的アンバランスを克服しようと苦慮した哲学者は少なくなかった。(ベルクソンがそうであり、パースも然りであった。)話しが先走ることになるが、環世界論はここで有効な暗示となると言っておきたい。
 <記号>は――ソシュールの記号概念に明らかなように――質量的なものと形相的なものとの統合である。(ソシュール学派はこの定式に賛成してはくれないだろう。なぜなら、彼の記号概念に照らすと、記号における質料的な側面つまり<記号表現>はもう一つの<形相>に過ぎないからである。<概念>としての<記号内容>は形相だから、結局、記号はすみずみまで形相だということになる。私見によれば、この種の形相主義が間違えの元なのだが、いま立ち入った議論はできない。この点に関しては当ブログの過去の記事を参照されたい。)あるいは、蕪雑な言い方を承知で言うなら、記号とは主観的なものと客観的なものとの統一なのである。
 そうだとすれば、人文学に<意味>という概念が不可欠である限り、人文学という記号系の基礎部門に<記号>概念を装備する必要がある。それというのも、意味は何らかの形で<表される>ものでなくてはならず、意味を表すものを、定義上、ひとは<記号>と呼ぶからである。(ちなみに、記号が意味を表す「働き」を<表意する>(to mean, to stand for)と呼ぶことにしたい。)
 <記号>が世界を記述し説明するために必要不可欠な要素である、という見解は、少し考えてみるとわかるように、じつは自明である。なぜなら、記述や説明という<科学的営み>は(たいていは)言葉によっており、言葉こそ<記号>の典型だからである。
 人間の行動のうちで記号が生成する事実を誰も否定できないだろう。(<徴候>などのいわゆる<自然的記号>も例外ではない。この点については、「自然的記号の誤謬」(『恣意性の神話』、勁草書房、所収)を参照。)筋肉の動きが表情を形作り単なる物理的音が言葉に転化するように。こうしてわれわれは一つの目覚しい結論を得る。すなわち、記号の存在にその質料が必要であるかぎり、<記号の意味>は単なる主観性を超えているのだ。ここに、人文学が必然的に自然科学との錯綜(entrelacement)を自らが存立する条件とせざるを得ない理由がある。ユクスキュルのカント主義の本当の意義――あるいは、その一つの意義――はこの点にあると言わなくてはならない。  
(つづく)