ユクスキュル・ルネッサンス (2)

namdoog2007-01-09

環世界論における<主体>
 <主体>概念を生物学に導入した功績は、確かにユクスキュルに帰せられるべきものである。しかし問題は、ユクスキュルが、古典的な<主体>とは一線を劃した<主体>概念を新しくどのように構想したか、それを詳らかにすることだろう。環境に属する生命体の研究という意味での<生物学>を構築するためには、理論構成の要素として<主体>概念が不可欠であるという主張は、確かに目覚しい意義をもつだろう。しかし思想史における<主体>概念の悪名高い多義性とその歴史的変遷については、初学者でも知っている。生物学にとってなぜそしてどのような意味で<主体>が必要なのか――この点を明らかにしなくてはならない。
 前述のように、生命体としての人間が生きている<主体>は、認識活動がそのまま生命活動と重なり合うような形で把握されなくてはならない。しかも、人間にあっては、<認識>の様態が他の生命体とは異質な面をそなえている。人間は<自己意識>をもちうる生きものであるし、<言語>という格別な表現を駆使することができる動物でもある。例えば、ミミズが自己を省みることがあるとは思えないし、言語を話さないのは自明である。しかしこの異質さは必ずしも<優劣>の問題ではないし、進化の系列における<進歩>の問題でもない。
 例えば、うなぎの生態を考えてみよう。うなぎは日本列島の河川の泥底で5年あるいはそれ以上生活した後、秋になると産卵のため海へ下り熱帯深海域で産卵する。そこで艀化した仔魚は黒潮に乗って北上するのだが、その間に成魚とほぼ同様な体型のシラスウナギとなって、最終的には、冬に日本の河川に遡上するという。うなぎが所有している<地理の知識>は――人間にはとても真似のできない能力だという意味で――驚異的ではないだろうか。
 このような視点を提供してくれるのが、じつはユクスキュルの環世界論なのである。古典的ダーウィン主義をここで詳しく検討する余裕はないが、その進歩主義(progressivism)の基底にキリスト教的人間中心主義があることだけは指摘しておきたい。ここでいう進歩主義とは、人間は神の似姿(imago dei)であり、他の生物たちを絶した高みに位置しているという思想、この高みに昇る過程がすなわち進化の過程であるとする思想である。
 だが環世界論によれば、おのおのの生物種はその種に固有の環世界に生きている。アブが生きている環世界は牛のそれとは異なっており、「両者が同じ一つの環世界に帰属している」とする客観主義は誤りであることになる。
 しかしもちろんアブと牛とは互いに関係性を持ちうるのであって、そのかぎりにおいて、環世界論と絶対的な相対主義―こうした見地は一つの自己矛盾ではなかろうか!――とは相容れない。換言すれば、環世界論は単純な相対主義を標榜するわけではないだろう。
 われわれが際会したこの問題は、古典的な<他者問題>と論理的に同型である。ある生物種にとって他の生物種が<主体>として(前者の)環世界に出現することがいかにして可能なのか。議論を端折って言うなら、問題の解は、主体に関して<対称性を非対称的に生きる>能力をある生物種がどのようにして獲得したかを闡明することのうちにある、と言いたい。
 例えば、牛がアブの行動を行動として把握し、その行動のパターンを掴むことができたときに、牛という動物種はアブという<主体>を認識していると言ってもかまわない。牛の認識にはまず<アブ>という種の同定(identification)、次いで、<うるさくつきまとうアブは尾で振り払えば逃げてゆく>という相互的行動のルールの理解(understanding)が属している。これが<認識>と呼ぶ資格をそなえた<能力>であるゆえんは、アブを尾で振り払ってもしつこくまとわりつく場合、つまりルールが破綻する場合に、次の新しい手あるいは行動のパターンが可能性として発生の余地があるからである。偶然性の空白を必然性というパターンで次々と埋めつくしてゆくことが出来る場合、この能力は<認識>の資格をもつだろう。それが不可能なら、それは機械的反応にすぎず認識とは言いがたい。
 主体としてアブと牛とは存在論的身分としては互角であるのだが(対称性)、しかも牛はアブに積極的に働きかけることができる(主体の対称性の超出=非対称性)。そのときアブの主体が無力化されたという仮構がこの環世界に導入される。アブが牛の環世界の要素であることに注意しなくてはならない。(この逆もいえる。)すなわち、<主体>概念は、生活体の属する環世界とセットにしてはじめて成立する概念なのである。すなわち、ユクスキュルがもたらした新たな意味合いでは、<主体>と<環境>(ユクスキュルの用語では<環世界>(Umwelt))とは概念として独立ではない。
 <対称性を非対称的に生きる能力>としての主体性を記述するために、20世紀の現象学存在論(Heidegger-Sartre-Merleau=Ponty)は多大の寄与をなしうるだろう。ユクスキュルの環世界(Umwelt)の考え方がハイデガーの現存在分析に影響した形跡は、後者がUmweltを術語として同じ意味合いで用いていることに示されている。
 あらためて指摘しておくべき論点がある。牛が透明な羽をぶんぶん鳴らしてうるさくつきまとうこの小さな動物を同定すること、そしてこのアブとの相互行為のルールを理解していること――この認識は、もちろん知的なものであり単に<本能>などと呼ぶことは許されない。しかしそれは言語化された知識でないのはもちろん、頭で考えられたもの(意識的知識)でもなく、身体性の基盤で成立する身体知であり、身体運動に顕現される身体の能力である。(だが言語が身体運動との連続性をどこまでも保持し続けることを忘れるべきではない。)
 要約すると、新たな意味での<主体>とは、<環境>と<身体性>とセットで理解されるべき概念なのである。この意味での<主体>が古典的な<主体>(一例は、カント哲学におけるそれ)とどの点で違いがあるかをわざわざ述べるまでもないだろう。(もちろんわれわれの議論は主体問題の輪郭をたどるものに過ぎない。その実質を詳しく記述する仕事が残されている。)
 環世界論がギブソン生態学的心理学の構想に酷似することは誰の目にも明らかではないだろうか。ギブソンは、生活体が環境から情報ないしアフォーダンスを直接に拾い上げるのだとした。生活体と環境とは存在論的起源においてセットになっている。環境にある要素の特性は生活体の動きに即応して現出する。しかしながら、ギブソン生活体の<主体>について消極的にしか言及しないし、その用語を理論に導入することはなかった。彼はまた、主体−客体という近代的な認識論の枠組みに自分は賛成できないと明言してもいる。(ギブソン生態学的視覚論』(The Ecological Approach to Visual Perception, 1979)、を参照。)
 それでも<主体>概念は必要なのだろうか――この問いをユクスキュルの読者は自分の問いとして引き受けなくてはならないだろう。後で触れることがあるかも知れないが、筆者はさしあたり、生命体や人間についての学にとって、<自己>という概念が必要な限り、何らかの<主体>がやはり理論構成のために要求されると考えている。
 次にユクスキュルによる<環境>の考え方を採りあげよう。彼は一貫してUmgebungとUmweltを区別している。『生物から見た世界』では、前者に<環境>という訳語、後者には<環世界>という訳語が施されている。しかし筆者は本来<環境>と呼ぶべきなのは、ユクスキュルのいう<環世界>であると考える。すなわちそれはある生命体(ダニ、アブ、牛、人間など)が棲息しつつ制作する世界のことだ。(<人間が世界に住む>ことに問題はないが、動物に固有の世界があるかどうか、吟味が必要であろう。だがいまこの問題は無視して話しを進めたい。)生命体の存在構造をユクスキュルは知覚=行動系として捉える。生命体にとっての外界はUmgebungではなくて、いつでもすでにUmweltとして生起している。換言すれば、Umweltとは、Umgebungという素材から制作された記号システムなのである。
 Umgebungが環世界を制作するための素材であることをユクスキュルは必ずしも自覚していたとは限らない。しかし彼の議論に忠実に事柄を考えれば、それが素材、あるいは由緒ある形而上学の用語では、<質料>materiaであることが了解される。質料として、<生成>の相から言えば、Umgebungは<潜勢態>(engergeia)であることになる。
 この眼目を例証するのが、有名なダニの事例である。交尾を終えた雌のダニは潅木の枝先によじのぼり、そこで木の下を小動物が通るのを待ち構える。(1)なにか哺乳類(例えば狐)の皮膚から酪酸の匂いが放散されると、これがダニにとっては、動物の同一指定のための<記号>(知覚標識)となる。表現のぎこちなさを大目に見ていいなら、この事態を「この標識が外部に「投射」され(その結果)そこに<獲物>が現出する」と言い表せるかもしれない。この信号をキャッチしたダニはただちに見張り場から離れてそちらへ身を投げる。なぜなら、この知覚標識の後に別の作用標識(効果器を作動させるインパルス)が生じたからである。(2)次いでダニは、何かの上に着地したという知覚標識を得る。これが次の作用標識を解発してダニは毛の間を潜り抜けて動物の皮膚組織に達する。(3)こうしてダニは、鋭敏な温度感覚によって<温かなもの>を同一指定ことになる。確かにこれは温血動物であり、血を吸える<獲物>なのだ。後は皮膚に頭から食い込めばいい。こうしてダニは、産卵のために、動物の血液を自分の体内に送り込む。
 このダニの事例にうかがわれる<環世界>は、ユクスキュルによれば、三種の<機能環>(Funktionskreis)からできている(上記の(1),(2),(3)がそれらを語っている)。彼は言葉を継いで、ダニのこの環世界がいかに意味のニュアンスにおいて貧しいものかを強調する。(もちろん<ダニ>とはいえ、産卵期にある雌のダニのことであるので、一般にダニなる生物の環世界を全面的に尽くしているわけではない。しかし、ダニの雌雄や生活史の他の場面を考慮に入れても、基本的に生活体の<環世界>がある種の<貧しさ>に見舞われている、という論点には違いがない。この重要な論点には後で触れよう。)
 <機能環>は、環世界論を理解するためのキーとなる概念である。生活体が住む環境の要素あるいはその部分と、生活体の知覚とその行動ないし作用とが円環状の構造をなしている――<機能環>とはこの構造のことである。機能環が賦活されたとき、何が起きているのだろうか。
 生活体は受容器(すなわち目のような感覚器)と効果器(例えば脚のような行動のための器官)とで客体ないし対象を――ピンセットでものを掴むような具合に――挟み込んでいる。生活体とは知覚=運動系であり、その受容器は知覚標識(Merkmal)を客体へ投射し効果器は作用標識(Wirkmal)を同じ客体に投射する。こうすることで――ユクスキュルの用語とは離れる言い方になるが――生活体の働きで客体が構成されることになる。
 こうして、認識論としては、環世界論とは生活体を主体とする一種の構成主義(constitutionalism)であることがわかる。そして存在論としては、それが内部存在論(endo-ontology)であることも明らかだろう。
 ここでいう<構成>はカント的認識主体によるものではないから、constructionというよりメルロ=ポンティの用語法に従ってconstitutionと言うほうがいい。この場合の<構成する>は、to consider something to be something を意味する。例えば、Does such an activity constitute a criminal offence? という文のconstituteをconstructと取り替えることはできない。Constitutionにおいて問題なのは事象の<意味>であり、身体性を基盤とするその<理解>なのである。(これに対して、You must learn how to construct a logical argumentの例文に明らかなように、constructionは知性の意図的な働きを言うことが多い。)
 環世界論が内部存在論であることは、まさしく、対象ないし客体が(知覚=行動系としての)生活体の内部に抱え込まれている点を見れば明らかであろう。対象が初めから生活体の外部に自存していたわけではない。生活体が潜勢力(ユクスキュルの理論では、<刺激>に相当する)と遭遇する場において、自己組織化される秩序として、<対象>が生成するのだ。簡単に言えば、生活体と環境の要素の全体すなわち環世界とは、存在論的起源においてワンセットをなすのである。  (つづく)