俳句の世界制作法 ノート(8)

namdoog2008-05-29

 映像を制作する技法としてのモンタージュはふたつの力能をそなえている。ひとつは、人が慣れ親しんだ日常的な――ある意味で凡庸な――映像に含まれた可能的連想を断ち切る〈否定の力〉である。第二には、この貧しくされた素材としての映像をあらたなイメージの連関に結合する〈肯定の力〉である。
 前掲の例に即してこれら二つの力の発動を確かめることができうる。映像(1)から(2)への展開に映像(3)が後続することによって、<官憲の暴力が労働者にふるわれる>という単一の<エピソード>が映像として描かれる。それは単なる〈場面〉(scene)以上のものだ。観客は目の前に労働者の恐怖や官憲の横暴さなどをまざまざと視ることになるのだから。この<エピソード映像>の記号機能は多元的なのである。これは単に事態を指示する(denote)だけではない。そこには情感や抽象的観念の表出(expression)が輻輳しているのだ。
 それぞれの映像はそれ自体としては連想を括弧に封じ込まれた、きわめて貧しい情報しかそなえない。個々別々に映像を見せられた観客は、目の前に意味のあるイメージをほとんど認めることができないだろう。もちろん、最初の映像に複数の手を識別することができるが、だから何だというのだろうか。各ショットが組み合わされることで初めて統一のとれた(つまり意味のある)〈エピソード映像〉が現出する。
 モンタージュを認知のことがらとして捉えなおして次のように言うことができる。モンタージュとは、貧しい情報を取り合わせることによって豊かな意味をそなえた表現を制作するプロセスにほかならない、と。(この「取り合わせ」という用語は俳句の記号機能の要因である。これについては後述。)しかも、情報の豊富化に情報の貧困化が要請される点にモンタージュの特異な働きがある。
                            *
 映像の制作技法としてのモンタージュは、現代俳句の〈写生〉の技法と構造にかんして同型である。これは容易に見て取ることができる〈写生〉の特徴であろう。一般に俳句が前掲した映像ショットの列にそっくりな構造をもつことは明らかである。例えば、芭蕉の門弟、其角の次の句、
(上) 此木戸や
(中) 錠のさされて
(下) 冬の月
の鑑賞を試みよう。
 (上)――ふつう「上五」と呼ばれる部分――の表現は、映像なら対象のクローズアップに相当する。それは、ある対象だけを背景や周囲から切り離し選別して、しかも近距離から記述した表現である。作者は木戸を目の当たりに視ているが、これ以外の事物との一切の関連性は断ち切られている。ここに、記述の含意を貧しくする〈写生〉の力の一面を確かめることができる。
 注目すべきは、ここに〈切れ字〉の「や」が出現していることである。それも当然というべきだ。それというのは、そもそも〈写生〉の技法が記述の含意を切断する〈否定の力〉を発揮するからである。この点はじつは五・七・五の音韻からなる定型詩としての俳句の構成要素――つまり、上五、中七、下五――のすべてに適合する。伝統的に〈切れ字〉に分類されてきた語彙(や、かな、けり、等)とは、顕在化されモンタージュの否定的力を表意する「標識」として働く慣用表現にすぎない。
 しかしながら、これらの特定の語彙が出現しない句においても、種々の形態の「潜在的」切れ字が必ず伴っているはずである。
 注釈者は、この「木戸」を江戸城市谷見付の門を表意する語であるとしている。しかしながら、この注釈は、其角の制作過程が完了した後になって、句の表現に彼が盛り込もうと意図した知的内容の一部を記述したものにすぎない。鑑賞者の立場からすれば、単に(上)を読むだけでは、それが何をいいたいのか、そもそも何が問題なのか理解できないだろう。換言すれば、記述(上)は字義的な意味をもつとしても、有意性には欠けているのである。*1
 (中)の中七では、(上)で記述された対象へカメラがさらに寄って至近距離から城門の「鍵」だけが最大のクローズアップで描かれている。これを見とどけた鑑賞者は、これに続けて (下)の表現――下五――を読むことになるが、そこで一転して、冬の夜空にかかる月を遠景として眺めることになる。
 このように、この俳句が詠っている風光がじつは冬の季節のものであることは、最後になってようやく了解される。だが〈写生〉がモンタージュという記号機能であるかぎり、レトロスペクトつまり遡及視の効果が(上)と(中)の理解にも及ぶことになるし、反対に、(上)と(中)のプロスペクトつまり前方視が(下)の解釈にも効果を及ぼすのである。――以上の鑑賞のプロセスに、「モンタージュ弁証法」が働いているのを確かめることができるだろう。
 この作品のさらに立ち入った鑑賞に古典の教養が必要になることは言うまでもない。研究者の解説によれば、この句は「夜空にそびえる城門が寂然と静まり返っている情景」を詠っているが、じつは「『平家物語』巻五「月見」に見える「惣門は鎖のさゝれて候ふぞ」をふまえ、その軍記物語的な切迫した雰囲気を背景に、冬の月の凄絶な感じ」を表現したものだという。*2 この解説が句の鑑賞をおおいに助けることは確かである。だがこれ以上俳諧の文学的研究に深入りするつもりはない。われわれは、この俳句ならびにその解説にかかわらせて、現代俳句における〈写生〉の技法の考察に集中しなければならない。ここには、いくつか重要な論点がある。    (つづく)

*1:〈有意性〉(relevance)とは、スペルベルウイルソンが構想した発話の解釈理論の基礎概念である。スペルベルウイルソン『関連性理論』第二版(内田聖二ほか訳)、研究社出版、2000(D.Sperber and D. Wilson, Relevance: Communication and Cognition , London: Wiley-Blackwell; 2 edition 1996)を参照。

*2:堀切実による『去来集』への校注、『連歌論集・能楽論集・俳論集』(『新編・日本古典文学全集』88)、小学館、2001、pp.429-430.より詳細な考証は、尾形仂による「去来抄・解説」(白石悌三・尾形仂編『俳句・俳論』(鑑賞・日本古典文学、第33巻)、角川書店、1977、pp.277-281.))にある。