俳句の世界制作法 ノート(7)

namdoog2008-05-26

 <写生>の記号学的機能と構造を解明することによって、従来、問われずに放置され、匿されてきたいくつかの論点に、真の問いの資格がもたらされるだろう。同時に、〈現代俳句〉はもとより前近代における〈俳諧〉の文化に対して、文化史の上の位置づけが与えられことにもなるだろう。
 子規は〈現代俳句〉というジャンルを、〈写生〉という技法を根拠にして、小説や近代詩などの文藝(とひとまず言っておこう)の表現領域に創出した。このことの意義は重大である。その技法の核心とは――ごく単純に述べれば――言葉の使用によるイメージ(映像)の制作ということにあった。それゆえ、俳句の技法について考察するなら、映像理論を参照することは無駄ではないだろう。いやむしろそうしなくてはならない。
 そして実際、映像理論を構築することに、みずからが制作現場にたちつつ懸命の努力を傾注したエイゼンシュタインは、彼の〈モンタージュ論〉を裏書きする記号学的実践として、一再ならず俳句に言及している。この段階で話を先取りして結論を述べておくなら、俳句の描写法つまり〈写生〉とは、原理的に〈モンタージュ〉にほかならない。
 エイゼンシュタインは「俳句における〈写生〉がモンタージュである」と述べたわけではない。言い換えれば、彼は俳句に言及するにあたり、〈写生〉という問題意識を顕在的にもってはいなかった。しかも、彼はモンタージュ論を俳句のみならず短歌にも無造作に拡張して適用している。そればかりではない。彼によれば、日本における種々の記号系あるいは記号表現のジャンル――漢字とくに会意文字、、活け花、造園、絵巻物、歌舞伎、書、浮世絵など――はモンタージュによって構成されているという。彼は言外に日本文化一般がモンタージュなる記号系の構成方法におおわれていると言いたげだが、ここではこうした一般化の是非や妥当性を検討することはしない。*1
 モンタージュ論の大きな影響のもとで俳句論を展開した我が国の先人に寺田寅彦がいる。彼がどれほどモンタージュ論に感銘したかは、映画論と俳句論の各所でエイゼンシュタインにいくたびも触れている事実がそれを物語っている。ひとつだけ引用すると、寺田は、「私はかつて(…)俳諧連句の構成が映画のモンタージュ的構成と非常に類似したものであることを指摘したことがある。その後エイゼンシュタインの所論を読んだときに共鳴の愉快を感ずると同時に、彼が連句について何事も触れていないのを遺憾に思った」と述べている。*2
 たしかにエイゼンシュタインが俳句を論じたとき、それが「俳諧の発句」に由来する日本の短型詩であるという歴史には顧慮をはらっていなかった。この不備を寺田のようにチクリと批判しても仕方がない。むしろ筆者は、エイゼンシュタインが日本の文学史について乏しい知識と素材しかなかったにもかかわらず、俳句に関する深い洞察を導いたことに驚きをおぼえる。そして寺田と同様、モンタージュ論の主導的な提唱者が、俳句を自身の理論的観点からかなり立ち入って吟味していることに対して「共鳴の愉快」を感じざるを得なかった。
 しかしここでわれわれが果たすべき課題は、エイゼンシュタインモンタージュ論の妥当性でもなければ、寺田寅彦モンタージュ論理解の妥当性でもない。繰りかえして言うなら、問題は、俳句の技法としての〈写生〉がどのように世界を制作するか、このことを、モンタージュ論に学びつつ解明することなのである。
                         *
 エイゼンシュタインモンタージュ論は、映画制作に実地にたずさわる経験を介して、時期によって細部に(ある意味では骨格にも)変更や修正を加えられていった節がある。しかしこの経過にもかかわらず、モンタージュ論には一貫して変わらない構成要因があるようにおもえる。それは、エイゼンシュタインが〈否定を媒介しての綜合〉と名づけた映像の構成法のことである。
 この言葉遣いに、20世紀の歴史に多少とも通じた読者なら、革命後のソヴィエトにおける哲学思想が、さまざまな曲折があったにせよ、最終的にレーニン派の「弁証法唯物論」によって宰領されることになる顚末を聞き取ることができるかもしれない。今回参照できたエイゼンシュタインの著述には、どのようなテキストに彼がこの「弁証法」の理論的根拠を求めたかを知ることはできなかった。しかしながら、エイゼンシュタインモンタージュにおける「弁証法」という言い方でなにを考えていたか、この論点は明白である。
 映像の構成法について、エイゼンシュタインはたとえば「モンタージュ的思考は分化的に感覚することの頂点であり、「有機的な」世界を解体することの頂点で」ある、という。*3これはどういうことだろうか。彼自身の例を踏襲してここでも一例をあげよう。
 (1) つかみ合う手のクローズアップ
 (2) 組み打ちのミディアム・ショット
 (3) かっと見開いた両眼の最大クローズアップ
 ここにはある物語的統一をそなえた「有機的な」世界を三つの映像に「分化」してしまう映像構成のやり方が示されている。番号をふったそれぞれの映像が離散的な様態で出現することに注意しなくてはならない。(1)は(さしあたり)それだけで知覚されるべき孤立した映像である。換言すれば、この映像は「それ以前」と「それ以後」という持続の時間相を内包してはいない。持続を断ち切るためにこそ、このクローズアップが映像として「いまここに」出現したのだ。視覚イメージとして(1)をもういちど注視してみよう。私が視るのは〈つかみ合う手〉でしかない。その手が人体の一部であり、この場面に複数の人間がかかわりをもつことをこの映像は視覚イメージとして描いてはいない。ましてこの場面に関与する人間がいつどの場所にいるのか、家屋なのか、野外なのか、そうした時空的規定性については何の情報もこのイメージから抽出できない。
 このように、モンタージュとはまずもって<統一的なもの>、<有機的なもの>、あるいは<物語>の成立基盤を掘り崩し解体する働きである。*4ここでさまざまな用語を費やしてエイゼンシュタインが意味したいと意図したもの、それをわれわれは形而上学の見地に立って〈世界〉と呼びたい。結局、モンタージュとは、まずもって〈世界の破壊〉なのである。
 映像(1)を見届けたわれわれの目の前に間髪をおかず映像(2)が立ちあらわれる。(1)で描かれた手の仕草が複数の人間の取っ組み合いへと統合されることになるだろう。したがって、(1)は部分によって全部を表現するレトリック――換喩(metonymy)――であったといわなくてはならない。(レトリックは単に言葉の問題ではないことがこの一例だけでわかるだろう。)
 映像(1)に映像(2)がモンタージュされるために、*5この両者の関係はどのようでなくてはならないのか。
 映画作家の技法がここで首尾をとげるかどうかは、(1)が(2)の換喩として成立するかどうかにかかっている。ここには視覚のまことに逆説的な機能が暗示されている。「逆説」というのは、知覚は、定義上、現前するものの知覚でしかありえないからである。すなわち、過去にすべり落ちた映像経験ないし視覚に現在の映像経験ないし視覚を遡及的に投射するという働きである。この働きをさしあたり「遡及視」(retrospect)と呼ぶことにしよう。
 しかしながら、映像(2)を目の前に視ることは、「遡及視」とはベクトルが逆さのもう一つの過剰な投射がこのモンタージュを裏打ちしていることを意味する。すなわち、(2)の〈いまここ〉での知覚から回顧するなら、じつはすでにいちはやく映像(1)が映像(2)をまえもって視覚イメージとして先取していたのでなくてはならない。(1)に含まれた過剰なまなざしをさしあたり「前方視」(prospect)と呼んでおこう。
 結局のところ、ある個別的なモンタージュが成功するかどうかは、現前の知覚をレトロスペクト(遡及視)とプロスペクト(前方視)とが二重に裏打ちすることが必要なのである。こうしてわれわれは、モンタージュという映像技法が、世界の破壊ないし切断(=否定)を媒介して新たな統合へ向かう記号系の運動であることを確かめることができた。 (つづく)

*1:エイゼンシュタイン(Sergei Eisenstein)のモンタージュ論を考察するためにわれわれが参照した文献ないし資料には次が含まれている。エイゼンシュタイン『映画の弁証法』(佐々木能理男訳)、角川文庫、1953、ベラ・バラージュ『映画の理論』(佐々木基一訳)、学藝書林、1992、レオン・ムシナック『セルゲイ・エイゼンシュタイン』(小笠原隆夫ほか訳)、三一書房、1971、マリー・シートンエイゼンシュタイン』(佐々木基一ほか訳)上下、美術出版社、1966−68、《セルゲイ・エイゼンシュタイン――人と作品》(ワシーリー・カタニャン監督作品、1958)、DVD、IVCF-5087。モンタージュ論はじつはエイゼンシュタインの専売ではない。映画制作者かつ理論家としてのプドフキン (Vsevolod Puduvkin) もモンタージュ論の提唱者のひとりである。また彼らと正面から敵対する理論(キノ・グラース理論)に依拠して映画制作をおこなったジガ・ヴェルトフ(Dziga Vertov)の業績も映像技法の記号学的機能と構造を考察するうえで興味深いものである。彼らの理論を検証をすることは、しかしながら、われわれの問題意識に直接関係しない。

*2:映画芸術」『寺田寅彦随筆集』(小宮豊彦編、第三巻)、岩波文庫、1963改版、p.216.

*3:エイゼンシュタイン『映画の弁証法』、p.24.

*4:同じ主旨を述べたエイゼンシュタインのことばをもう一つ引用しておく。モンタージュは「正常に経過する事件の構成部分の釣合いを奇怪なまでに破壊」する。『映画の弁証法』、p.34.

*5:モンタージュmontageは、もとフランス語の動詞monterから派生した名詞であって、日常語としては「(機械などの」組立て」を意味する。映画の技法を意味する専門用語〈モンタージュ〉に元来の意味が残響として含まれているのは明らかだろう。バラバラの素材としての映像を組合わせて世界のイメージを制作することがモンタージュの働きである。