俳句の世界制作法 ノート(10)

namdoog2008-06-02

 この作品のさらに立ち入った鑑賞に古典の教養が必要になることは言うまでもない。だが俳諧の文学的研究に深入りすることはわれわれの議論の道を踏み外すことになる。ここでは引き続き、現代俳句における〈写生〉の技法の考察に集中しなければならない。
 <写生〉における<認識の弁証法>を現代俳句にかかわる人たちが技法として自覚していたことは重要である。もちろん彼らの理解は互いに相違を伴っていたし誤認も混じってはいた。しかし〈二物衝撃〉(藤田湘子)、二句一章(大須賀乙字)、〈配合〉、〈取り合わせ〉(山口誓子ほか) などの用語は基本は同じ制作技法をいっている。
 じつはこの技法はすでに芭蕉一門が「ふる・ふらぬの論」として考察の中心に置いていて、〈取り合わせ〉の名で読んでいた。われわれも俳句の技法のこの核心を〈取り合わせ〉と術語化することにしたい。
〈取り合わせ〉が制作の技法であることから、定型性こそが俳句の本態であることがわかる。当然ながら〈取り合わせ〉は複数の言語記述を要請する。それゆえ、俳句をひとつの記述の連なりと捉えた場合、そこには必ず分節が具わるはずだ。ここに俳句の定型性の根拠がある。
 ではそれが五・七・五という音数律の形式をとる根拠は何か。これは別途考究すべき大きな問題である。
 現代俳句の歴史は定型性から自由になろうとする種々の動きを見せている。すでに子規の時代に「新傾向の俳句」の制作がさかんに試みられた。子規自身も五・七・五の音数律については原理主義者としてふるまってはいない。『俳句問答』(明治二九年刊)において、子規は一問一答のスタイルをかりて、「字余り」についてきわめて寛容な態度を示している。
 「吾ははじめより俳句を作らんとて骨折るに非ず、ただ吾感情を見はさんとて骨折るなり、其骨おりの結果が十七文字となるか、十八字となるか、はた二十字以上となるかは豫期する所にあらず」(前掲書、三八〇頁) 。
 彼の寛容な態度は俳諧史の知識に由来している。これより先に執筆された『獺祭書屋俳話』(明治二五年刊)において、子規は字余りの俳句について十八の作例を列挙し「今日にありて之を見れば奇怪の観なきに非ざれども、俳風変遷の階梯としては是非とも免るべからざるものならんか」と評している (前掲書、三九三頁)。
 だからといって、子規が俳句の定型性を軽んじていたことにはならない。子規は、非定型性をあくまで例外として認める、というしごく穏当な見地に立っていたに過ぎない。
 こうして「新傾向俳句」や「自由律俳句」などというスロ―ガンは、俳句の成立根拠に無知なために唱えられた誤謬だというべきである。この種の標語に同調して制作された「俳句」の作例をいくつかあげよう。
 草青々牛は去り                        (中塚一碧楼)
 せきをしてもひとり                       (尾崎放哉)
 分け入っても分け入っても青い山             (種田山頭火
 これらの記述に詩情(poetry)なり抒情性(lyricisim)を感じとる人がいるかもしれない。そのことをもってこれら言語断片を「詩」だと言い張ることもできるかもしれない。それはいいが、だがここには認識の弁証法の気配もない。
 われわれのいう〈弁証法〉とは、世界の光景に新たな視角の可能性を付け加える記号系の再帰的動き(recursive move)のことである。俳句とは、手持ちの言語断片(素材)を加工して以前には潜在性に沈められていた新しい認識を言語表現のかたちで詠うものだ。取り合わせられたものが火花を発してぶつかりあい未知のアマルガム創発されるのである。換言すれば、俳句の制作とは、記号系を操作して名状しがたい潜在性から可能性を生成させる記号系自体の自己言及的プロセスにほかならない。
 俳句から出発しつつ、ついに「俳句」の名を捨て「一行詩」を名乗る作家もいる。彼らがみずからの詩作を「俳句」と称することをやめたのは、〈季語〉ないし〈季題〉を俳句の構成要素として放棄したことに由来する。われわれの見るところ、「自由律」などという不条理を口にするよりよほど理論的に筋が通っている。
 もちろん問題は俳句を一行に記すか、三行に書き分けるか、という表記のスタイルにあるのではない。俳句の構成要素としての〈定型性〉が作品に具現されているかが問題である。この要素がないところに〈取り合わせ〉もなく、したがってモンタ―ジュが始動する認識弁証法の働きも失われるからである。
 もちろん稀な例外を除けばほとんどすべての作品にはこの種のプロセスが伴わない。それが現代俳句の実情である。これらの俳句を「月並み」という。こうした制作物(artifact)は欲望によって消費される「情報」のアイテムに過ぎない。とはいえ、それらにはそれなりの積極性がある。
 われわれは「月並み」の俳句制作を貶めているわけではない。われわれの真意はむしろ逆である。結局のところ「月並み」の記号学的実践は他者の目で見た世界を詠うことによって世界の共同認識を遂行することである。それは<反復>によって世界の共同制作を強化・推進することほかならない。その意味で「月並み」の句を吟ずることはそれなりの修練とセンスを要求する。*1   (つづく)

*1:世の中には、「三行詩」や「五行詩」などを名乗って「詩らしきもの」を公的メディアにさらしている人士が多いようである。まじめに読んだことはないが、それらの「詩らしきもの」は、今のところ、人畜無害という意味で都市条例に違反しない落書きのたぐいにすぎない。この種のエセ詩歌は「月並み」とは比べ物にならない。