俳句の世界制作法 ノート(11)

namdoog2008-06-03

主観主義と客観主義の彼方へ――俳句の形而上学

 俳句の技法の問題が火をつけた「主観派」と「客観派」の対立をあらためて整理してみよう。客観派は〈写生〉ということで、自然のありのままの記述であると解する。自然が主観の観照する対象であるかぎり、そこに主観的要素(情緒、抒情性、思い、理想、調べ、象徴など)がはいる余地はないはずである。現代俳句史において、これはふつう高濱虚子が確立した見地だとされている。
 他方、主観派は、「芭蕉は写生などと言わなかった*1」として、作家の思いを句に移す(写す)ことを否定しない。むしろ、主観の能動的な「造型」によって自分の体験や感動――「いのちのほてり」*2――を詠うのが俳句にほかならない、とする。
 ところが、問題の人虚子はのちに「客観写生」を首唱することになる。この技法の所産とされた作品にはたとえば、
 大寺を包みてわめく木の芽かな
 手にとればぶてうほふなる海鼠かな
などの句がある。これらから詠み手の〈感情〉や〈主観性〉や〈思い〉などを汲みとらないわけにはゆかない。そこで、「客観描写で表現されたものが(…)おのずと作者の主観を表したものになる」と評する解説者が出てくるというわけだ*3。だがこの批評が背理でしかないことを指摘する必要があるだろうか。「客観描写」つまり「主観性」を排除した描写が「おのずと」「主観を表す」と言われても、困惑してしまう。「おのずと」とはどういうことなのだろうか。実際、彼らは何を言いたいというのか。
 20世紀において「主観」と「客観」の概念が批評用語として破綻したことは、小説の分野ではつとに知られていた。もちろんこの動向には現代哲学のさまざまな変貌が与っている。問うべきは文藝理論とりわけ俳論における「哲学の貧困」である。
 〈写生〉の構造要因としての〈取り合わせ〉 の考察が示しているのは、モンタ―ジュも写生も〈主観〉、〈客観〉などの古めかしい概念とは異次元の概念空間に位置づけるべき記号系の機能だという点である。〈写生〉は(素材としての)記号系を(作品としての)記号系として再制作する(remake)プロセスである。それゆえこのプロセスは、記号系が記号系そのものにかかわる関係であるかぎりで、〈再帰的動き〉(recursive move)の一種にほかならない。〈俳句を詠む〉という言語行為は記号系の〈再帰的動き〉なのである。
 通常の場合、言語行為はすでに人称という文法規則に制約されている。俳句を雑誌の誌面のうえに読むとき、読者は俳句の詠み手が俳句の制作という形式で遂行された認識の主体だとおのずと了解する。しかしながら、黙示されているか顕示されているかによらず、俳句制作の主体はまさに俳句を詠む行為(再帰的動き)が制作した存在者にすぎない。これに加えて、一人称代名詞の運用(performance)が言語使用に持ち込まれる以前の段階では一人称的主体――ふつう〈主観〉と命名されている存在者――が生成する余地がない点に注意しなくてはならない。
 人称についてまわるこの二重の「仮構性」を直視しよう。なにもわれわれは、自己意識が虚妄だとか、人格(英語では人称もpersonである)が虚構だと言いたいわけではない。言いたいのは、記号系とりわけ言語の再帰的動きが、世界以前の、それ自体として名状しえない潜在性を〈俳句〉が可能となる方向へと押しあげたということ、記号系には人称を離れた多様なものがある(たとえば、表情、映像)かぎり、潜在性に参照させるなら人称は単なる「虚構」にすぎないこと、このことである。
 俳句の制作にわれわれが確認できるこの再帰的動きの消息を古人はどこか知っていた気配があり*4、現代俳句の作者たちもこの認識を――意識してかどうか――継承している節がある。
 的を射た俳句論を執筆した数少ない論者のひとり寺田寅彦は、エイゼンシュタインのモンタ―ジュ論に新しい読みの可能性をつけくわえた。すなわち、寺田はモンタ―ジュを「潜在意識的な領域の触媒作用」と見たのである*5。彼が映画を夢と関係づけて考察したのは、モンタ―ジュを無意識的機序と捉えた前提の自然な延長だといい得るだろう。
 この文章がものされた昭和六年当時には次々とフロイトの著作が翻訳され出ていた。例えば、書名だけをあげるなら、『精神分析入門』アルス社、一九二六−七、『フロイド精神分析学全集』春陽社、一九三一、などである。〈精神分析とモンタ―ジュ論との統合〉を現代において再構築することはきわめて興味深い仕事になるだろう。
 寺田の指摘が重要なのは、ひとつには、精神分析が人称を超えた概念空間をしつらえているからである。周知のように、フロイトの「心のモデル」では、無意識的領野でリビド―に突き動かされている非人称のエス (es) ないしイド(id)は快楽を追求し不快を避ける〈快楽原則〉に支配されている。だが自我(ego)が発達すると社会や外界と折り合いをつけて欲求を満たすようになる(<現実原則>の遵守)。
 それゆえ精神分析をまじめに受けとめるなら、〈写生〉をめぐる主観派と客観派の対立が擬態にすぎないことが露呈するはずだ。



結語に代えて

 以上のもろもろの論点をとりあつめ、漏れた点をおぎないつつ、今回の俳句の形而上学へのわれわれの試みを締めくくりたい。現代俳句の制作はなによりも認識の営みである。この種の認識の機序がどういうものか、われわれはこの点に観察の大半を費やした。得られたところをいくつかの命題にまとめれば、以下のようになるだろう。モンタージュの構成要因として、「遡及視」(retrospect)と「前方視」(prospect)の二重性を析出したのがこのノートのオリジナルな知見となっている。しかも、それぞれが、<推論のタイプ>としての「帰納」(induction)、「アブダクション」(abduction)に基礎付けをもつという発見が重要な論点をなす。ただしこの論点を詳細に展開する余裕が今回無かったのは心残りである。
 (1)「現代俳句の構造要因はその音数律にある。言い換えるなら、俳句の定型性こそが、絶対に譲渡し得ない俳句の権能の根拠である。それゆえ、自由律の「俳句」などというものはあり得ない。」
 (2)「現代俳句の制作は、(そう言いたければ)イロキュ―ション・パ―ロキュ―ション・ロキュ―ションのあらゆる次元が認識に寄与する発語行為として、叙情と叙事(感情と知性)が統合された認識である。」
 (3)「現代俳句の認識は、映像技法としてのモンタ―ジュと同型である。それというのは、俳句の技法としての〈取り合わせ〉は、言語素材の表意連関に切断と縮約(reduction)を持込みつつ(〈否定〉)、素材を〈対立〉させることによって(もう一つの〈否定〉)かえって新たな表意を創発させるからである。」
 (4)「(3)で述べたような俳句型認識は、エイゼンシュタインの適切な用語を借りるなら、〈認識の弁証法〉と呼ぶことができる。なぜなら、俳句は否定を媒介に認識の綜合を目指すものだからである。」
 (5)「現代俳句の認識弁証法は特殊なものではまったくない。これは日常的知覚が遂行する認識と同型であり、また科学的認識にも通じている。なぜならば、〈認識の弁証法〉を推論のタイプとして再考するとき、それが〈アブダクション〉(abduction)であるのは明らかだからである。」*6
 (6)「このようにして、現代俳句は固有な特徴を有する記号系として世界の認識を具現化する。現代俳句の作品群をひとまとめにして世界の〈俳句ヴァ―ジョン〉と呼びたい。世界の〈俳句ヴァ―ジョン〉*7 を制作することによって、われわれは同時に世界を制作するのである。」 (了)

*1:森澄雄『俳句に学ぶ』角川書店、一九九九、二一頁。

*2:金子兜太『俳句専念』ちくま新書、一九九九。ついでながら、この見地に対する批判を次の箇所に読むことができる。坪内稔典『俳句発見』、富士見書房、二〇〇三、二二四−二二五頁。

*3:大輪靖宏、前掲書、一三二頁。

*4:「「松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へ」と師の詞のありしも、私意をはなれよといふ事なり。」『三冊子』(『連歌論集・能楽論集・俳論集』(『新編・日本古典文学全集』八八)、小学館、二〇〇一、五七八頁。復本一郎の現代語訳はこうなっている。「芭蕉先生の言葉に「松のことは松に習うのがよい、竹のことは竹に習うのがよい」というのがあるが、この言葉は、詠もうとする対象に対する自分勝手な把握からの脱却の大切さを教えたものである」(同書、五七八−五七九頁)。

*5:寺田寅彦、前掲書、二一九−二二〇頁。

*6:桑原武夫はよく知られた『第二芸術』において「俳句の自然観察を何か自然科学への手引きのごとく考えている人もいるが、それは近代科学の性格を全く知らないからである。」(桑原武夫、前掲書、二八頁)と俳句の認識をくさしているが、それは「月並み」や駄句しか念頭にないからであり科学主義に無自覚に囚われているからである。物理学者・寺田寅彦は俳句を論じて「風雅の精神は一面においてはまた自然科学の精神に通うところがある」と述べている(寺田寅彦、前掲書、二五七頁)。「一面において」という保留がついているし、事例の提示もないが、われわれは寺田に同意せざるを得ない。いやむしろこの保留を取り下げたいとさえ考えている。

*7:〈ヴァ―ジョン〉の用語はグッドマンに由来する。グッドマン、前掲書、を参照。