記号主義の生成(1)  直観を否定する

namdoog2008-07-02

 パース(Charles Sanders Peirce)は1868年にJournal of Speculative Philosophy誌にいささか奇妙な題名の二つの論文を寄稿した。すなわち、「人間に具わると主張されてきたいくつかの能力に関する問い」(‘Questions Concerning Certain Faculties Claimed for Man’)と「4つの能力の否定から導かれるいくつかの帰結」(‘Some Consequences of Four Incapacities’)とである。
 パースこのとき29歳。これらの論文は、彼が生涯をつうじて探究した記号主義の形而上学をほとんど疑念の余地なく確立したという輝かしい光芒を放ち続けている。
 彼が委細をつくして展開した議論の最大の要点は、<直観>なる認識能力の否定にある。だが「直観」(intuition, immediate cognition)の用語も人により意義を異にすることがあるだろう。
 パースのいう「直観」は、彼の哲学探究をどこまでも牽引していったもう一つの重要な概念に密接に結びついている。それが<推論>という概念である。いや、単に結びついているという言い方は十分ではないかもしれない。なぜなら、パースの<直観>概念はまさしく<推論>によって規定されているからだ。(パースの場合、記号学記号論)がそのまま論理学となる所以であるが、いまこの点には深入りしない。)
 パースは<直観>をこう定義する。すなわち、「直観とは、それ以前の認識によって限定されない認識、言いかえれば、意識の外にある事物によって限定される認識(a cognition not determined by a previous cognition of the same object, and therefore so determined by something out of the consciousness)にほかならない。」(5.213)。
 そしてまた、「ここにいう直観とは、<推論の前提ではあっても結論とはならないもの>とほとんど同じ(nearly the same as "premiss not itself a conclusion")である。」(ibid.)パースがここで若干の保留を加えたのは、前提や結論は必ず判断(あるいは命題)であるが、直観はそうとは限らないと いう事情を考慮したためである。以上の定義に関して筆者なりの注釈を施すことにしたい。
 1)慧眼な読者はここでいささか逆説的な両者の関係を見ることだろう。<推論>はある意味で<直観ではない理解の様態>として規定できるからである。しかしここに単純な論理のループないし循環を見出すのは誤りだろう。ましてパースの論証の空虚さをあげつらう不毛な真似などすべきではない。
 パースにとって積極的なプロト概念は<推論>である。換言すれば、人間の心の働きの本態を<推論>と把握したのである。(そのようなものとして、<推論>は人間性そのものであり、そこから生命体へ遡及してこれを捉えかえせば、<推論>とは生命力そのものだということになろう。)それに対して、<直観>は単に否定される被告の役割を演じるために、哲学の法廷に召喚されたにすぎない。ともあれ、彼の形而上学の心髄が論理学的なものである点を銘記すべきである。論理学的なものは、パースにとっては、<推論>という機能によって規定される。彼にとって論理学はそのまま哲学であり記号論でもある。
 現代では論理学は形式主義の大きな影響のもとで文字通り「形式化」してしまった。いや、そのようにして哲学としては「形骸化」の果てに追いやられた観がある。パースにおいては、論理学の内容に哲学的含意がまだたっぷりと含まれていたのである。ついでながら、最近になり、たかだか1世紀という短期間、独断のまどろみをむさぼっていた論理学的思考が目を覚ます機運が生まれつつあるような気がする。この機運をいっそう熟させるためにパースを読み返すことに意義がないとは決して言えない。
 2)直観の定義を再確認してみよう。認識能力としての「直観」をパースが否定したことからさまざまな帰結が導けるのだが(第二論文を参照)、ここでただちに明白になる論点がある。
 つまり、「直観」とは「意識の外にある事物によって限定される認識」であるかぎりで、それを否定する態度は、認識によって捉えうるすべてのものは意識内部にある、(その意味で)意識の様態にすぎない、という主張を掲げることに帰着するのだ。
 パースの解釈者はしばしばこの種の見解をパースの「観念論」(idealism)と呼んで、やはりパース文献に顕著に認められる「実在論」(realism)との整合性や矛盾などについて好んで語っている。
 筆者はこれが矛盾であるとは毫も考えない。あらゆる存在者(being)を意識様態に還元する見地は、なるほど「観念論的」だといえよう。しかしパースの場合には、この「観念論」は「実在論」と同じレベルに並列するものではない。そうではなく、ふつうに解された「観念論」、「実在論」その他あらゆるイズム(isms)がはじめて可能になる地平を用意するものとしての<観念論>なのである。
 筆者はここで古代東アジアの哲学思想である「唯識論」を想起せざるを得ない。これについては後ほど触れたい。イズムを可能にするのは認識であり、認識は記号過程にほかならない。したがって、パースが「意識の外にある事物によって限定される認識」としての「直観」を否定したのは、これを積極的に言い直すなら、原初的な存在カテゴリー(primary category of being)としての<記号>を定立したことを意味する。こうして、直観の否定はパースにおいて記号主義を樹立する意義を有することになった。  (つづく)