記号主義の生成(2)  認識能力の吟味

namdoog2008-07-08

 第一論文「人間に具わると主張されてきたいくつかの能力に関する問い」で言及された「いくつかの能力」は実際には5つに及んでいる。それらの能力を書き出してみよう。

1) ある対象を認識するとき、それが直観によるのかそれとも推論(reasoning)によるのか、その差を直観的に知る能力
2) 自己意識(self-consciousness)をもつことを直観的に知る能力
3) 認識が単に主観的(subjective)かそうでないかという違い(例:夢と現実認識との区別)を直観的に知る能力
4) 内観(introspection)の能力つまり自分の心の世界(the internal world)を直観的に知る能力
5) 記号なしでものを思考する能力(thinking without signs)
 はじめにそれぞれの能力について説明し紛らわしい点を明らかにしておこう。
 1)の能力をパースが問題としたのは、人が「直観」で何かを知ったと主張した場合、どうしてその人にそれが分かるのか、直観の発動を知る特別な能力があるのかをつきつめるためである。
 2)にいう能力がもし人にそなわっているなら、当然のこととして、人には<自己意識>なるものが具わっていることになる。若きパースは熱心なカントの読者だったから、ここで彼は「自己意識」がカントのいう「純粋統覚」(pure apperception)と区別すべき点に読者の注意を促している。なぜならカント的な純粋統覚はいわゆる意識一般の構造要因にすぎないからである。
 ところがパースが問題にしているのは、むしろデカルトが「私は考える、ゆえに私はある」という命題を導いたとき想定されたような、私一人の自我――換言すれば、一人称という様態にあるego――である。言い換えるなら、問題はカント的な「超越論的主体」ではなく、個別の「経験的主体」である。パースはなぜ人はそうした種類の認識(自己意識)をもてるのかを問題視しているのだ。
 この種の認識は直観によるのだろうか、それとも先行する認識によって限定されるのだろうか。 
 3)パースはまず認識をその内容の面と働きの面とを分けて考える。(よく似た区別は後年フッサール現象学の枠組みとして喧伝されたから、読者には馴染みがあるだろう。すなわち、ノエマ/ノエシス(noema/noesis)という区分である。ただし厳密にいうとパースとフッサールとでは大きな考え方の違いがあるが、しかしこれは当面の問題ではない。)ここでパースが問題とするのは、認識の作用の性格を人は直観的に知るのかどうか、という点である。とりわけ<夢みる>や<想像する>と<知覚する>という作用には決定的相違がある。すなわち、前者は架空なものについての認識であるが、後者は現実的認識なのである。この違いを人は直観により知るのか、それとも推論によって知るのか。
 4)や5)については特段注記すべきことはない。では以下でそれぞれの能力に関するパースの議論の骨子とその特徴を調べてみたい。
 1)ある認識が他の認識に限定されたものか、それとも外部の事物に直接限定されているかをどうして人は知るのだろうか。
 この設問からわかるのは、パースが、デカルトのような合理主義者とロックのような経験主義者を<直観>という問題に関して同等視しているという点である。実際に彼らの著作を読むと、デカルトはパースの定義する「直観」という認識能力を経験的事物についてもアプリオリな認識についても是認している。この点に関してはロックも同様である。ロックの認識論によれば、人は単純な経験的所与を連合して複雑な認識を構成するという。この「構成」は間接的であるからパースの用語法では「直観ではない能力」であるが、ひとつには単純な所与に関してはロックは「直観」を認めているし、二つには直観に由来する認識とそうでない認識の差を人は知りうる――まさに直観により――とする点でデカルトの考えと違いがあるわけではない。
 1)で問われている能力を超越的自我の作用を持ち出して基礎づける人々(つまりカント派)に対して、パースは、その種の能力を証明することは不可能である、カント派がそれを主張する根拠は単にそうした能力があるという感じ(feeling)に頼っているに過ぎないとする。しかし、この感じが直観に由来するのか、そうではないのか、と再び設問することがいつでも可能である。こうしてカント派の議論は無限に後退せざるを得ない。
 パースが1)の能力を疑問視し否定するために展開する議論には目にたつ特徴がある。一つはパースがつねに思想史を顧みてその克服のために自説を構想しようとする議論の構えであり、二つとして(それより重要なのは)議論を絶えず<経験>へと差し戻す議論のスタンス(reference to experience)である。この二つの特徴によって、筆者はパースの議論を「経験的形而上学」(experiential metaphysics)と呼びたいとおもう。彼は悪い意味での「思弁的な」形而上学者ではまったくない。
 パースは、法律家なら、証人が自分が経験したことと推理したことを絶えずごっちゃにしてする傾きが大いにある事実――ごく普通に認められる事実――をよく知っていると指摘している。推理を介さず直接に知っていることと推理に基づいて知っていることを識別することは至難の業なのである。審理の過程で、証言の信憑性はつねに大きな争点になる。
 もちろんこの事例から、直観の否定を帰結として導くことはできない。「自分で経験したこと」が直観のみに基づくかどうかを明確にしなくてはならないからである。しかしパースが言外にいわんとするのは、「自分で経験したこと」に実はいつでもすでに推論が介在しているという点なのである。
 これより説得力のある事例は、奇術師の業である(本論文でパースは、<チャイナ・リング>というパフォーマンスを分析している)。[写真を参照]自分が見たことと推理したこととのあいだの区別はこの上なく難しい。そうでなければ、マジックに人が驚異をおぼえることはないだろう。
 無垢の目で「自分が見たこと」が強いられた推理によって攪乱されてしまうのが、奇術のつねである。両者が判然と弁別できないから、マジックはまるで奇跡をもたらす業のように見えてしまうのだ。言うまでもないが、この事例において、「自分で見たこと」に実はすでに推理が混在している、ということがパースが本来打ち出したい論点である。(このくだりでパースは霊媒(spiritual medium)にも言及している。パースの友人W.ジェイムズらによって米国心霊現象研究協会 (ASPR) が1885年に設立されたことはよく知られている。)
 注目に値するのは、1)の議論の段階でパースが夢に言及している点である。夢と現実的知覚との区別がつかない、というデカルト的論点は3)で主題化される。ここで夢が問題視されたのは、むしろ「フロイト的」関心からである。すなわち、単なる映像にすぎない夢の断片に人は後から大量の解釈を注いで一編の物語を仕立て上げる。言い換えるなら、夢という経験における直接的なものと推論によって付加されたものを区別することは至難のことだとパースは言うのである。こんな具合に、本論文には興味深い論点がそこここに散りばめられている。
 パースの経験的形而上学の立場が顕著になるのは、彼が、知覚心理学における諸問題を<直観>からの見直しを試みる場面においてである。網膜はほぼ平面なのになぜ立体視が可能なのだろうか。網膜上に盲点があっても、知覚される空間に穴があいていないのはどうしてなのだろうか…。知覚には理論的に説明すべきたくさんの問題がある。(つづく)