記号主義の生成(3)   無意識の推論

namdoog2008-08-11

パースが「直観」を退けた議論はそれほど単純ではない。彼はまず「 ある対象を認識するとき、それが直観によるのかそれとも推論(reasoning)によるのか、その差を直観的に知る能力」に異議を申し立てる。

パースは「直観」をいわば真正面から撃破するのではない。その代わりに彼は、ある認識作用が直観によって遂行されたことを直接に知る(=直観により知る)ことは不可能であることを論証することを通じて「直観」を否定する方略をとる。これはカントの認識批判の踏襲とも言いうるし、この議論は、直観論というよりメタ直観論であるとも言えるだろう。

パースはこの論証を展開するについて、視覚、触覚、聴覚という三種類の感覚知覚(sense perception)を俎上にのぼせる。議論の骨子を紹介しながら議論に含まれたパース独自な本質的論点――経験的形而上学を構想するわれわれにとって重要だとおもえる論点を明らかにしよう。

1)網膜に盲点があることはよく知られている。盲点(盲斑)とは視神経が網膜に接合する部分であり、ここには視細胞がないので光があたっても興奮しない。したがって、視野は欠損部分のない楕円形ではなく、大げさにいえば(扁平な)ドーナッツ形をしているはずである。すなわち視野には穴があるはずなのに、実際の視覚はそうなっていない。なぜだろうか。この穴を埋めて連続的な視野を構成する無意識な推論が働いているという説明がいちばんもっともらしいのではないか。

2)触覚についても類似した無意識的推論が認められる。例えば、生地の手触りを識別するとする。指先をまったく動かさずに布地に触れたのでは生地の感触は得られない。どんなに静かに指で触れたとしても、そこには必然的に微小な「探索運動」が生じている。すなわち、ある瞬間における触覚の所与を別の瞬間におけるそれと比較する(=推論)ことにより初めて触覚が生成するのだ。(あらゆる感覚知覚に必ず探索運動が伴うことは、生態心理学のいわば定理だと言えるだろう。)

3)聴覚はどうか。われわれはそのつどの単音の高さ(pitch)を知覚している(汽笛の音、羽音などを考えよ)。これはパースのいう直観の働きではないか。しかし「絶対的単音」は単なる概念にすぎない。つまりわれわれの聴覚経験のなかにそうしたものが生じる余地はない。音の高低は必ず他の音の高低との比較によって間接的に知覚されるほかはない。

パースは言及してはいないが、「絶対音感」(absolute pitch; perfect pitch)を持ち出してパースに反駁する人がいるかもしれない。この特殊な音感を持つ人は、さまざまな楽音やそれに近い一般の音を直接音名(つまりドレミ)で言うことが可能だとされる。しかし「絶対音感」は西洋の12音階を前提とするかぎり「絶対」ではないし、明らかに経験によって陶冶される能力に過ぎない。つまり「絶対音感」とは誇張した曖昧な観念なのである。

4)もう一度視覚を考察してみよう。網膜は無数の針状の細胞からできている。細胞は極小ではあるが有限の大きさを有している。パースは「視ることができる最小の物体はある細胞と別の細胞との距離より小さい」という。さてある平面(a piece of plane; PN)を「視ることができる最小の物体の大きさ」(m)に分割しよう。(PN=m1+m2+…+mn )この平面を視たとき、斑点の集まりではなく連続した一様な平面が視えるのはなぜか。パースはここに無意識の推論の働きを指摘するのである。(パースのこの観察は、現代的に言えば、神経系の働きがデジタルな記号系の処理なのに経験される知覚がアナログなのはどうしてか、という問題にかかわる。)

5)パースはさらに動体視覚の問題を取り上げて論じているが、彼の打ち出したい論点は明らかなのでここでは割愛していいだろう。

パースが「直観」を退ける議論の戦略に注目しなくてはならない。彼は直接「直観」を論駁する議論を提出しているのではない。1)から5)の感覚知覚を説明するのに「直観」を持ち出すことはそれだけで理論的致命傷にはならない。「直観」なる特殊な能力があるという可能性は誰にも否定はできないし逆に証明もできない――この限りにおいて、「直観」の仮定は思弁(speculation)に基づく。彼がかわりに「無意識の推論」を提示するのもある意味では思弁による。だからこそ、パースは「ある対象を認識するとき、それが直観によるのかそれとも推論(reasoning)によるのか、その差を直観的に知る能力」はないことの論証を行っているのである。

しかしパースの思弁には前者の思弁との決定的違いがある。それは経験科学との連携をこの思弁が堅持している点である。ここにパースの見地を〈経験的形而上学〉と呼びたい理由がある。

「無意識の推論」という形而上学的仮設はこの上なく重要である。一般には(あるいは合理主義や経験主義の伝統では)「推論」は意識(デカルト風にいえば〈精神〉esprit)の働きだとされてきた。これに対してパースは〈身体性が営む推論〉の積極的リアリティを主張したのであった。現代の脳科学の知見を俟つまでもなく(一例としてリベット『マインド・タイム』を参照)、〈無意識〉を仮設することなくして人間の認知や行動を可知性にもたらすことはできない。パースのこの先見性はやはり特筆すべきだろう。 (つづく)