記号主義の生成(4)  自己意識の生成 

namdoog2008-08-20

直観を論駁するためにパースは次に「直観的な自己意識」をターゲットにする。はたして直観的な自己意識を人はもつことができるのだろうか。

設問のこの順序には理由がある。前の問いはいわばメタ直観的認識論の試みだった。すなわち、人が持ちうる認識について、それが直観によるのかそれとも間接的な認識によるのか――この「either…or」の問いに「直観」という特殊な認識能力で決着をつけることはできない――これが前の設問からパースが引き出した帰結であった。だとすると、新たな問いに対して彼がどんな応じ方をするかはおよそ予想がつく。換言すれば、「直観的な自己意識」があるとしても、あるという事実を直観的に知ることができないかぎりにおいて、この問いはポイントを失わなくてはならない。つまり積極的に「直観的な自己意識」がある、とは言えないのだ。

これは多くの人にとってスキャンダルに違いない。かつてデカルトは〈考える我〉(ego cogitans)があることは絶対に疑うことができないと考えた。(パースはこの段でデカルトには言及していない。しかし自己意識の問いを立てるとき、彼が暗にデカルトを念頭にしていたのはまず間違えないだろう。実際、問題の第二論文では主題的にデカルトについて論じている。)なぜなら、「私は存在しないのではないか」と疑うなら、疑うことは思惟の様態なのだから、疑えば疑うほどいっそう明確に〈考える我〉の存在が浮き立つはずだからである。

哲学者ではない世俗の人にとって、自分にかかわる気づき(つまり自己意識)を持たない人はまずいないだろう。ただしこの場合の「人間」にはいくつもの制限がある。大人であること、精神の病にかかっていないこと、酩酊していないこと、精神に効果を及ぼす薬物などを摂取していないこと…などの制限である。実際、パースはこうした制約に注目して議論を展開してゆく。

パースはまず人が自己意識をもつのは事実であることを承認する。ただしこの場合の「自己意識」は個別的で人称を具え感情に満たされた自我のことであり、カントの「純粋統覚」のように一般的で知的かつ非人称的普遍者ではない。この区別を設定することで、議論が〈経験〉(the experiential)の領野に解き放されることになった点に注目しなくてはならない。換言すれば、パースはここでも一種の〈経験的形而上学〉を企図するのである。

そこでパースが指摘するのは、幼児は自己意識をもたないという経験的事実である。もちろん幼児とて〈意識)の所有者だ。しかしながら、幼児の意識はほとんど無意識に覆われており何よりも〈人称性〉を欠いている。その明らかな証拠は、幼児が一人称代名詞で自分を名乗れないという事実だろう。幼児が言語を習得するのは一歳を越えた時期である。それより前は〈言語〉自体が身についていない以上、幼児の意識が人称を欠くのは当然だが、言葉を口にするようになっても、しばらくは自分を三人称の名(つまり親が自分を呼ぶ名)で呼ぶのが通例である。(ちなみにパースは、これはカントもその著作『人間学』で指摘している明白な事実だと言っている。)(遅ればせながら申し添えると、〈人称性〉が言語的カテゴリーである点に十分な留意が必要である。)

パースの構想する〈自己意識生成の形而上学〉のあらましは以下のとおりである。

(1)幼児には自己意識がない。(平たく言うなら、幼児はまるで〈ものごころ〉がついていないのである。)とはいえ、幼児にも意識はりっぱにある。しかしこの〈意識〉は動物のそれにも似た心的機能にすぎない。その何よりの証拠は幼児が一人称代名詞で自分を呼べないという事実だろう。かわりに幼児は三人称代名詞(つまり親が幼児を呼ぶ名)で自己を称するのである。たとえば、「トットちゃんは…」という具合である。

(2)環境との相互作用を通じて幼児は原始的な自己の身体イメージをいっそう洗練されたそれに組み替えてゆく。現象学の用語でいうなら、幼児は原始的な身体図式を環境との交渉裡においていっそう分節をそなえた図式に作り直してゆく。

(3)やがて幼児は言語を習得する。その結果、非言語的・前言語的な環境は言語的概念が浸潤した複合的環境へと転身する。

(4)さて、幼児は大人の会話を理解してそこに含まれた判断を自分で確かめようとする。というのは、大人の判断のすべてを必ずしも幼児は信じることができないからである。

(5)例えば、「このストーブは熱いから触ってはダメ、火傷するよ」という親の言葉を疑って幼児はストーブに手を伸ばす。それでひどい目にあって大泣きする!問題は、幼児の判断ないし信念が経験によって誤謬とされたことだ。経験の積極性・肯定性に誤謬によって消極性・否定性がみまわれたことになる。

(6)身体性の経験を基礎としたこの否定性のせいで幼児の非自己的意識に〈自己性〉が創発される。――以上がパースによる自己意識生成の形而上学の概略にほかならない。ひとことで評するなら、まことに卓抜な構想ではないだろうか。その眼目について多少考えてみたい。        (つづく)