記号主義の生成(5)  認識の構造

namdoog2008-09-06

[身体性の経験を基礎とした否定性のせいで幼児の非自己的意識に〈自己性〉が創発される――この見地については後に機会をみて再論することにして、いまはパースの直観論を先に進めることにする。]

パースがいま俎上にのぼせようとするのは、

3) 認識が単に主観的(subjective)かそうでないかという違い(例:夢と現実認識との区別)を直観的に知る能力

である。もちろん彼はこの種の直観を否定する議論を繰り広げることになる。

パースが議論を遂行するにあたり、一般に認識の基本構造を〈内容+心的作用〉と概念化している点は注目に値する。例えばある信念[今日は土曜だと(私は)信じている]を取り上げよう。この信念が一方で[今日は土曜である]という命題、他方でこの命題を表示しつつそれを信じるという働きないし作用の二面性を具えているのは明らかではないだろうか。

この種の想定(supposition)は多くの哲学者に共有されてきた。例えばラッセル(B. Russell)の「命題にかかわる態度」(propositional attitude)という概念に、典型的にこの想定を見て取ることができるだろう。

この想定を英語の文法形式が動機づけたことは明らかだ。すなわち、Russell believes (thinks, wishes, hopes and so on) that…という文において、認識動詞(cognitive verbs)が述部を形成し目的節(that-節)を伴っている。したがって、目的節が〈命題〉に、認識動詞が〈心的作用〉に対応すると見なしうる。実に明瞭ですっきりした理論化ではないか。

パースはこの理論を踏襲しつつ、内容を〈客観的要素〉、心的作用を〈主観的要素〉と称する。われわれとして強調したいのは、パースがこの理論の妥当性について言及していないという点である。むしろ彼の真意は次の主張にあるのではなかろうか。「ふつう認識の構造はこのように二面的に考えられているが、その場合に直観なる能力は無益になる、あるいはその存在を証明できない」と。言い換えると、問題の認識構造に関する理論は二次的重要性しかもたないのである。直観を否定するための手段に遣われているといってもいい。

彼の記号主義からすれば、〈認識〉は徹頭徹尾ひとつの〈記号過程〉(semiosis)である。その要因である記号を単純に〈主観的〉と〈客観的〉に分けることはできない。ある意味では(すべてが記号的作用だという意味では)主観が全部をおおっているが、しかし記号は単なる主観的なものではない(むしろ主観以前のものである)のだから、すべては客観的だと言えなくもない。結局彼が認識についての通念に従うのは直観を否定する便宜のためだけなのである。

具体的にパースはどのように3)の能力を否定したのだろうか。彼が問題にしたのは、心的作用の多様性を弁別するための直観的能力を人はもつかどうかである。例えば、a)単に考えられたコトとb)信じられたコトとの差を人は直観的に知るのかどうか。しかし――パースは言う――もしこの種の直観能力がなければ、両者を区別できないではないか。なぜなら、もし推論で両者を判別したのなら、この〈推論〉というコトは、a)単に考えられたものなのか、それともb)信じられたものなのかと問わなくてはならず、これが前もって決定していないのなら、議論は無限に背進するからだ。

ところが、である。すでに見たように(http://d.hatena.ne.jp/namdoog/20080811)、直観能力があることを直観的に知るのは不可能である。

この段階でわれわれのターゲットは、〈直観の存在証明〉ではなく、むしろ〈直観の要請〉に十分な理由があるのかという問題になる。換言すれば、直観を要請する必然性があるのか、それともその要請なしに〈認識〉を説明できるか、この点に決着をつけなくてはならない。

ところでこのあたりのパースの議論は丁寧とはとても言えない。まず彼は、夢と現実の知覚とを例示し両者を比較して、それらを区別するのは〈認識内容の客観的要素〉だとする。確かにこの例については、パースの出した論点は効果的かもしれない。夢と現実的知覚が行動的文脈で整合性をもつことはきわめて少ないからである。夢の表象が日常性を逸脱しているからこそ、目覚めてから人は「変な夢を見たな!」という感慨をもつ。もし夢の内容と目覚めてからの現実的知覚とが連続性と整合性を保っていたのなら、夢と現を区別する理由が人には無くなるのではなかろうか。(多くの人が気づくように、彼のプラグマティズムの思想がここにはすでに伏在している。この論点に関しては後段の議論も参照。)

ただし、例えば、「期待する」と「予想する」の区別はどうつけたらいいのだろうか。パースは「考える」「信じる」を例としている。後者には前者にはない要素があるという。すなわち、〈確信の感覚〉である。この要素は心的作用あるいは意識の働きの外部のもの、一種の標識に過ぎない。それゆえ両者を弁別するのは、直観ではなく標識を手掛かりとする〈推論〉なのである。このような扱いのできる信念を彼は〈感覚的信念〉と呼んでいる。

周到にもパースは別のタイプの〈信念〉、〈行動的信念〉というカテゴリーに言及する。この種の信念には特別に確信の感覚は伴わないが、主体の行動を観察することで彼女/彼に信念を帰属せしめることができる。

例えば、「今日は天気が崩れる」という行動的信念を所有する主体は傘を持って外出するだろう。ところで〈行動〉は心的作用の外部の客観的要素に過ぎない。それゆえ、直観ではなく、推論によってこの心的状態が「考える」ではなく「信じる」に相当することを人は知ることになる。――読者にとって残念なことに、彼はこの種の分析を完遂してはいない。(それを展開した暁にライル流の行動主義哲学になるのかどうか。類似のものとなる見込みは高いがそのものズバリにはならないと思える。)この事実は読者に不安な気持ちを抱かせる。しかし彼の議論の方向性はよしとしなくてはならないだろう。
                              (つづく)