記号主義の生成(6)  内観はあるか

namdoog2008-09-26

パースが次に吟味するのは、行動主義心理学以前の古風な心理学が自明の研究方法とみなしていた〈内観〉(introspection)である。

4) 内観をめぐる問:人は内観の能力を持っているのだろうか。それとも内部世界(あるいは精神)に関する知識はすべて精神外部の事象の観察から導かれるのか。

もちろんパースはこの問いの前半部に否(ノー)という答えをつきつける。他の問を調べる際と同様、パースの議論には少なからぬ〈省略〉やある意味で〈飛躍〉が含まれている。したがって、彼の論証が完璧とはいわないまでも――相当程度成功していると判定されるためには、そこに含まれた省略語法(ellipsis)やいわば沈黙をあからさまな表現にもたらすことが必要になるだろう。

さて〈内観〉についてのパースの定義は伝統的定義と異なるわけではない。すわなち、内観とは内部世界(精神)を直接に知覚する能力のことである。パースの観察の驚くべき周到さは、彼が、この定義の二つの重要な含意を明示するやり方に看て取ることができる。

第一の含意:「内部世界」とか「精神」などという言葉遣いに関してパースは言う。こうした言い方を是認することは、「内部世界ではないもの」を何らかの意味で是認することである。しかし――パースは言う――われわれは「外部世界」の実在性を前提として要請するものではない、と。換言すれば、「内観」を吟味するにあたり(心身の)二元論なる形而上学に与する必要はないというのである。

ではどういう意味で「内部世界 / 外部世界」を設定するのか。ここでのパースの立場は常識(あえて言うなら、素朴実在論)のそれである。人は誰でも「普通外的と見なされる一定の事象のセット」(a certain set of facts which are ordinarily regarded as external)を了解している。例えば、道路に転がっていたアルミ缶を足でけったとする。アルミ缶は音を立てて転がるだろう――この種の事象は「外的」であることを誰も疑わない。このようにして、「外的と見なされる一定の事象のセット」つまり「外的世界」が自ずと設定できるだろう。

ちなみに、「ふつう…と見なされる」の部分が言わんとしていることの一部は、この〈見なし〉が知覚主体の意図や意志から独立であるという点だろう。例えば、目前の紅いリンゴを意志によって黄色いものと見ようとしても、それは不可能である。

ついで、それ以外の事象のセットを消極的な意味合いで「内的」と見なすことで十分である。「消極的な意味合い」とは、この〈内的領域〉に限定的で特殊な意味を読み込まない――例えばデカルトのように、それに〈延長のない、思惟を本質とする実体〉といった過剰な規定を盛り込まないことをいう。

「内部世界 / 外部世界」のこの設定あるいは構成は、パースの記号主義とみごとに整合性を保っている。(〈記号〉の存在性格が〈物質 / 精神〉の二項対立的様態と、矛盾するわけではないが、しかしそのどちらでもないことに注意しよう。)

第二の含意: 内観とは内部を直接に知覚することである。しかし、パースが問題視しているのは、内観の内容ではない。彼の問いは内観の形式性にしかかかわらない。換言すれば、内観という「ものの知り方」があるのかどうかだけがパースにとって重要なのであって、この知り方で知られた内容(知識)は観察の欄外におかれる。

(1) 以上で概念上の整理がほぼ完了し、内観の実質的な吟味が開始されることになる。さて、どんな知覚も内的な対象をもつのは否定できない。例えば、リンゴの知覚を考えよう。知覚については一通りではない語り方が可能である。一つに、知覚風景の中に描かれたリンゴは紅い、ということができるかもしれない。あるいは(現象論者のように)リンゴの知覚は〈紅さの感覚〉を具えている、ということもできる。いずれにしても、問題は――とパースは言う――内的対象の規定性(一般に内的対象の属性――何であるかということwhatness、上記の例だと〈紅さ〉)がどのようにして成立するかにある、と。

もし内的対象の属性が一次的・本源的なものであるなら、人は内観によって内部世界(リンゴの知覚はその要素である)を直接知ることができる、という結論が導かれる。もちろんパースは、内的対象の属性の本源性を否定する。〈内観〉という直接的な知的能力を否定するためである。

彼によると、内的対象の規定性は、外的事象に関する知識からの推論によって獲得されたものにすぎない。事例に即して彼の謂わんとすることを説明しよう。

目の前に紅いリンゴがある。母親など身近な養育者がそれを「紅い」という述語で呼ぶのを耳にした幼児はやがてこの外的対象を「紅いもの」としてカテゴリー把握しかつそれを自ら「紅い」と言語的に呼ぶことができるようになる。以上のプロセスは全て外的事象に関する知識(以下、「外的知識」と略称する)である。この外的知識の土台のうえに、幼児はリンゴを知覚したとき生起する内的状態(それが、感覚所与、知覚風景の要素、神経系の内部状態、その他なんであるにせよ)がやはりある属性を持つことを推論によって知るにいたる――これがパースの主張である。

しかし、この主張をもっと詳しく見なくてはならない。読者はそこに大きな問題が横たわることを知るのである。  (つづく)