記号主義の生成(7)  感情の内観?(壱)

namdoog2008-10-10

どんな知覚も内容をそなえている。例えば目の前に紅いリンゴをみとめたとき、この知覚(sens perception)には(ある種の経験主義者によれば)紅さの感覚がともなう。直観なる能力を是認する見地からこの事態を言い直すと次のようになるだろう。すなわち、人は直観によって紅さの感覚をじかに認識するのだ、と。

ところがパースはこの見地をにべもなく斥ける。彼によれば、知覚の内容(あるいは内的対象)は、外的な事物の述語=「紅さ」の認識に基づく推論によって導かれたものに過ぎない。実際、大脳を解剖していくら目を凝らして観察しても、どこにも紅く発色した感覚(sense-datum)が見いだされるわけではないし、脳のどこかの部位が紅く染まっているわけでもない。

「紅い」という形容詞(述語)は本来外部の対象について使用される表現の一種に過ぎない。(「紅いリンゴ」は適切な述語の使用であるが、「紅い感覚」は不適切である。なぜなら、紅いのはリンゴであって、<感覚>という身分が未詳な存在者ではないのだから。)しかしこの述語が派生的にあるいは比喩的に内的な対象へと付与されるに至る。

ここで事態を「比喩的」と言ったのは、本来の適用領域から別の領域へ述語をずらして使用しているからである。この比喩的な言葉遣いは、言うまでもなく「知覚の感覚理論」という理論枠組みにおける推論の一部をなす――パースの言いいたいことをこのように言いかえることができるだろう。(以上については前回簡単に述べた。)

ところで、パースは感覚を分析した議論を他の心的状態――感じないし情動、美的感情、道徳感情、意志――にも敷衍してゆく。そのすべてについて彼の議論をなぞるのはやめて、ここでは<感じ>(feelings)や<情動>(emotions)についての議論だけを見ておきたい。

喜怒哀楽のような感じ(感情)は、上記の紅さとは異なり、外的事物の述語から派生させることはできないのではないか。なぜなら、外部の無機的対象(例えば小石)はこころないものだからである。こころあるものだけが感情をおびることができる。それゆえ「この小石は悲しんでいる」と述べた途端にこの発話は無意味なものになるはずだ。

一見して堅固なこの論証に対するパースの反駁は二つの理由からなされている。それぞれを見ておこう。

第一に、彼に言わせるなら、種々の主観的状態(この場合は<感じ>ないし<感情>あるいは<情動>)を区別する直観的能力を人はもちあわせない。じつはこの論点は直観に関する「第三の問い」を吟味した際、すでに決着ずみとされていた。そこでは例えば、<信じる>という心的状態と<たんに考える>という状態とを直観的に弁別する能力などはないことが主張された。(http://d.hatena.ne.jp/namdoog/?of=1を参照) 彼の議論が完璧というつもりはないが、その方向性は是認できるのではないか。

この論点は、問題が<感じ>や<情動>の場合はとりわけ効果的だろう。

「感情の機微」という言い方があるが、ある単一な感情の輪郭やそのなかみを精確に規定することはとても難しい。そもそも<感情>の同一性という観念がどこまで妥当するかもいささか疑わしい。なぜなら人間の感情はいつもいち早く変化の相にあるからである。「気分」ほど気まぐれで変化しやすいものもない。しかも人がある種の悲しみを感受している場合、それが「どのような悲しみなのか」規定できるだろうか。――古来、情動ないし感情(affection, emotion)の種類と数について理論家達はほとんど意見の一致を見てこなかった。しかも感情(あるいはそれに類似のもの)は多分に歴史的・文化的変異に対する感受性が高い。

自分がいまどっぷりはまっている<感情>が精確には何か、それがいつでも自明であるわけではない。自分で自分の気持ちが分からないことは稀な現象とはいえないだろう。この点を指摘したかぎりにおいて、パースはまったく正しかった。

パースが提示した第二の議論に移ろう。結論から述べれば、彼は<感情>が主観的な心的状態である、という「常識的形而上学」を放棄することを果敢に主張するのである。   (つづく)