記号主義の生成(7)  感情の内観? (弐)

namdoog2008-11-09

パースに言わせるなら、人間の感情はすべて外界の対象にかかわりを持つことで成立する。逆から言うと、外部の事物に関係しない感情などはない。

たとえば私が腹を立てたとする。(私が怒ったのは、単に私の虫の居所が悪かったからか。けっしてそうではない。それはたとえば、私が新聞紙上で悪辣な轢き逃げ事件を読んだせいかもしれない。)この<怒り>の感情が、単なる私的かつ内的領域で完結する、何か「主観的状態」などではないのは明らかではなかろうか。

この<怒り>を命題のかたちに敷衍してみよう。もちろん、感情は明晰な言語表現にはなりにくいのが持ち前である。しかしあえて感情の言語化が可能だという想定に立ってみよう。そうすると、たとえば、「犯人は悪辣で非道だとおもえる」といった命題が(ひとつ)得られるだろう(他にも命題の候補者には数多くのものがあるに違いない。)命題の観察から、感情が、外部の事物に関する述語を表現するものであることが判明する。

パースによれば、感情ないし情動とはこのようにして、基本的にある外的対象についての述語である。

では、この種の感情的述語ないし判断と、知的判断とはどこが違うのか。この問いに対してパースはこう考えた。知的判断が普遍性を目指すものであるのに対して、感情的判断は、特定の時点・特定の状況・特定の個人など、特殊性にかかわる特殊的判断である。

パースの論点にわれわれの側から解釈を試みたい。一般に感情は一人称的な心的状態とみなされている。これはあながち間違えではない。しかし感情をそのようなものとして絶対化することは間違えを犯すことになる。われわれが打ちだしたいのは、「感情は表情と相互に浸透しあうそのかぎりで、本来、一体的なものである」という論点である。

たとえば<怒り>の感情をとりあげよう。わたしが怒りに身をゆだねているということは(つまり、怒りの感情を生きているということは)、こぶしを握り、顔を紅潮させ、大声でどなりちらし、「怒髪天をつく」(怒りのために頭髪が逆立つようであるさま)体性感覚に襲われているということである。簡単にいえば、怒りとは身体の一定の表現に他ならない。

誤解しないようにしよう。以上に記述した身体的表出(表現)とは独立に「怒り」という感情があって、それが主観性のなかに潜んでいるのではないということだ。これこれという表現、それがそのまま怒りなのである。反対からいえば、どのような表現にも顕れない感情などというものは不可能である。(ちなみに、感情を喚起する原因と感情そのものとを混同してはならない。)

事柄そのものとして(in itself)感情は表情に他ならない。しかしなぜわれわれは「同一のもの」に二つの名を与えているのだろうか。

これに対しては次のような整理を施すことができる。すなわち、言葉遣いとしては、同一の事象の「主観面」に「感情」という名をあて、その「客観面」を「表情」という名で呼ぶ、と。いずれにしても、「感情」と「表情」はいずれも記号機能を営む生体の同じ様態をいう用語なのである。

こうした事態を、ややこなれない言い方であるのは承知で、「表情=感情の融即=浸透態」(partipitation-imprégnation d’expression-émotion)と呼びたい。じつはこの用語はフランスの心理学者ワロン(Henri Wallon, 1879 - 1962)に由来する。(詳しくは、やまだようこ「共振してうたうこと、自身の声が生まれること」、菅原和孝ほか編『コミュニケーションとしての身体』、大修館書店、1996、所収、を参照してほしい。→http://www.amazon.co.jp/%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%8B%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%AE%E8%BA%AB%E4%BD%93-%E5%8F%A2%E6%9B%B8%E3%83%BB%E8%BA%AB%E4%BD%93%E3%81%A8%E6%96%87%E5%8C%96-%E8%8F%85%E5%8E%9F-%E5%92%8C%E5%AD%9D/dp/4469163422/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1226367264&sr=8-1

以上の論点を確認事項としてまたパースにもどろう。彼によれば、感情という最も内的な状態についても、人は「直観」によってそれを知ることができないだろうという。なぜなら、第一に、感情といえども、その記号としての機能に着目するとき、それが外部の対象に関する述語であることが分かるからである。
一般に、外部の対象についての述語は経験的に学ばれる。外界は不断に変化しているから、人間が生得的にワンセットの外的述語を神経系にビルトインされて生まれてくるとは考えにくい。感情=述語についても同様である。それは経験を媒介として=間接的に学ばれるほかはない。すなわち、感情の直観はありえないのである。

それに加えて、「感情を直観的に知る」ことを確証するのに直観を動員できない。言い換えれば、<感情を直観している>という事態を直観によって確証するのか、非直観的に、つまり経験知を介してそうしているのか、この判別を行うための決裁的手続きをわれわれはもっていないのである。

感情が「表情=感情の融即=浸透態」として生起するという事実は、パースの議論を強化するものだ。なぜなら、感情を知るには表情を知らなくてはならないのであり、原初的かつ原型的ないくつかの感情は別として、日常的な感情やそれを素材として洗練されてゆく感情については、表情の意味機能を学習することが、それらの感情を知るためには必須の条件となる。(外国人の感情を誤解することが多いのは、その表現に無知なためであることが多い。)

さて、ここまで表面化していないが、議論の底流にくすぶっている問題がある。感情や知覚の基礎に「直観」を置かないパースは、感情や知覚そのものの質のことをどうするつもりだろう。紅いものを知覚するためには、まさに紅さという質(クオリア)が存在しなくてはならないのではないか。あるいは、怒りの感情をおぼえるためには、まさに怒りの質(クオリア)をわたしが直接に経験しているのではないのか。こうした質の直接的経験を、われわれは「直観」と呼ぶのではなかろうか。   (つづく)