記号主義とは何か

namdoog2006-05-09

 「記号主義」は、グッドマンの形而上学を特徴づけるために我々が翻訳のタイトルとして遣った用語である(グッドマン、エルギン『記号主義の哲学』みすず書房、を参照)。しかし用語そのものは我々の創案ではない。これは初めパース哲学の呼び名として遣われたもので(上山春平編『パース・ジェイムズ・デューイ』中央公論社、119頁)、後にパース研究者の米盛氏がこの呼称を取り上げることになる(『パースの記号学勁草書房、参照)。我々の用語法はこれに倣ったものである。
 パースは人間の思考と認識を本質的に「記号過程」(semiosis)と見なすのであり、さらに歩を進めて「存在するもの」(being)が認識と思考の対象である限り、それもまた記号にほかならないという。記号主義とは一見して奇矯とすら映るこの種の形而上学のことである。
 グッドマンがパースのまさに正統な後継者であることを誰が疑うだろうか。第一に、グッドマンの認識論はまさしく<記号主義>の面目を呈している。世界制作論によれば、人間は記号系としての<ヴァージョン>を制作することによって世界そのものを制作する。グッドマンの言う「ヴァージョンの制作」――これは、記述する、絵を描く、所作を演じるなどの行為群からなる複合である――がパースの「記号過程」に相当するのは見やすいところだろう。(繰り返すことになるが、ヴァージョンとは記号系のことだからである。)
 しかもグッドマンは記号主義をさらに徹底した形で持ち堪えている。(そのために、認識論/存在論という学校風の区分そのものが有効性を失うまでになっている。)パースの習慣論や記号過程論にはまだどこか心理主義の残滓があるが、グッドマンにはその痕跡が見られない。もちろんパースのこの中途半端さは、ある意味でパース哲学の潜勢力に違いない。とはいえ指摘せざるを得ないのは、「観念の記号性」を明らかにしたパースであるが、(<記号>という存在のカテゴリーとは区別される)<観念>のカテゴリーを精確に捉えているか、よく分からないという点である。
 パースの(物質と精神の)連続主義からすれば、観念は物質的なものに連なる連続体のうえである位置を占めることになるだろう。(ベルクソン主義との類似性に注意が惹かれる。)しかし心的なものの<指向性>(intentionality)についてパースはどのような解明を施したのだろうか。この点について我々はまだ解釈上の結論を得ていない。しかし記号主義の見地からすれば、指向性を記号系の特性と見なす方向が開けてくるはずだ。我々はセラーズ(W. Sellars)の指向性の分析にそうした試みを認定する。
 確かにグッドマンは<心理的なもの>の存在論を懇切に述べているとは言えないし、他方でライルのように「機械の中の幽霊」を暴くという迂遠なやり方もとることもしない。グッドマンが行動主義に同情的だったことは確かだと思えるが、盟友のクワインとは異なり、彼は行動主義者ではなかった。ここに彼の複数主義のメリット――あえてそう言いたい――がある。つまり記号主義は<メタ形而上学>としての形而上学なのである。唯物論は一つの形而上学である。観念論も一つの形而上学である。両者は両立することなく正面から衝突する。ところが、<記号>という存在カテゴリーは物質/精神の二分法を包括しつついずれからも離れている。
 <メタ形而上学>としての記号主義は、グッドマン自身の言葉では<非実在論>(irrealism)という立場を意味する。われわれはヴァージョンを制作することによって世界を制作する。ヴァージョンと世界との不即不離な関係は、ヴァージョンを離れたどこかに<制作ずみの現実>を仮構することを決して許さない。そうした<現実>を想定する立場は、<現実>の内容がなんであれ――観念、物質、形相、質料、あるいはその他のいかなるものでも――リアリズム(realism)に違いない。それゆえ<非実在論>は第三の形而上学ではありえない。グッドマンはぶっきら棒にいう、「心のことを思い煩うな(Never mind mind)、本質は本質的ではない(essence is not essential)、そして物質は物の数ではない」(matter doesn't matter)」と(『世界制作の方法』、p.164.)
 なるほど記号主義は有効だと感心する人がいるかもしれない。しかし決定的に重要な問いがまだ問われていない。果たして記号主義は世界を自家薬籠中のものとなしうるのか。世界とヴァージョンの関係とは何か、と。