習慣と解釈項

namdoog2006-04-13

 例えば、卓上のリンゴを見て、あぁこれがリンゴだ、と会得する、あるいは「これがリンゴだ」と発話する、紙のうえにクレパスでリンゴを描く、これがリンゴだと人に差し出す…するとここに<記号>がたち現れる。記号の現出をコントロールするのは記号過程の三肢構造であった。
 いま話を<解釈項>に絞ることにしよう。解釈項とは、「記号の本来の意味作用の結果」としてのあらゆる事象である。「これがリンゴだ」という発話を耳にしてある種の情動をおぼえるかもしれないし(情動的解釈項)、唾液が分泌され手を差し出そうとする(活動的解釈項)かもしれない。パースはこれらの解釈項のうちで認知的価値をもつそれを特別に<論理的解釈項>(logical interpretant)と名づける。(あるテクストを参照すると、パースが音楽に認知的価値を是認していないのがわかる。「合奏曲の演奏は一つの記号であり、作曲家の音楽的想念を伝えるよう意図されている。しかしこの想念の本質はふつう一連の感情(feeling)の中にあるにすぎない」と(5.475*)。〔*この番号は旧選集の巻と節を表す〕 ここでパースはグッドマンと鋭角的に対立する。というのも、グッドマンは<感情>が認知的価値――もちろん概念的なそれではないが――をもつことを強調するからだ。とはいえ、パースが<感情>をあらゆる意味で貶めるわけではない。むしろ正反対なのである!この差はどこに由来するのか、パースが記号システムの再帰的構造を不明確なままにしていたせいではないのか。あるいはパースの場合、<知的であること>ないし<論理性>は<一般性>を本質とするから、感情や行為には一般性を認めがたいという理由からであろうか。いずれにせよ、この問題には注意が必要である。)
 パースが論理的解釈項の資格をもつ<心的効果>として<習慣>を再発見する手順を追ってみよう。
 まず心的効果のうちで一般性をもつのは、概念作用、欲求(これには恐れなども含む)、期待、それに習慣である(それ以外にはない、とパースは断言する)。だが概念作用が論理的解釈項だというのは同義反復に過ぎない。欲求や期待は概念と結合したときにのみ一般性をおびる上に、欲求は<効果>であるより<原因>であり、期待は条件法的構造を有しないから論理的だとはいえない。すると残る習慣のみが論理的であり<論理的解釈項>にふさわしいと言わなくてはならない(5.486)。
 二三のコメントを加えておこう。(元祖)プラグマティストであるパースは、概念の内容をその概念が産出する行為や実際面での<効果>のすべてだとした。(概念そのものの<なかみ>とか<色合い>あるいは<味わい>のような内容的=質的なものをパースは認めない。この点は先の問題にも関連するだろう。)習慣は経験を積むことによって形成されるが、それはすでに身についた習慣の変更(habit-change)でもある(例えば、5.477)。習慣が一般的であり条件法的構造をもつことは明らかだ。行動や考え方の一般的傾向でなければそれを<習慣>とは呼び得ない。
 ちなみに、この習慣が慎重で自己コントロールされたものが<信念>となる。習慣は形而上学的には――現勢的なもの(actus)ではなく――潜在的なもの(potentialis)すなわち<性向>(disposition)であるから、条件法的構造を持つのもまた明らかであろう。
 一種の遡及的論法を駆使して、パースはこの<習慣>にあらゆる<論理性>の構成原理を見出す。しかもパースの議論に関して瞠目すべき点は、彼の習慣論がある種の還元主義を果敢に採用する点でスチュアート・ミルの議論に似た面をもちつつ、しかしながら後者の控えめな心理主義の領分をはるかに超え出ていることであろう。というのは、習慣は単に心理学的規則性の問題ではなく、自然法則を含めてあらゆる(広義の)法則性=理解可能性の本態なのであるから。カオスからコスモスへ、偶然からルールへ、特殊性から一般性へ、不連続性から連続性へ――この動向を推進するものがすなわち<習慣>にほかならない。
 こうして我々はグッドマンの世界制作論――我々はヴァージョンの制作によって世界を制作する!――とパースの習慣論――我々は習慣を形成することによって宇宙を形成する!!――とのみごとな合致を認めるのだ。