記号の三項関係と習慣

namdoog2006-04-10

 パースが<記号>の働きを三項関係として闡明したことはよく知られている。一般にパース形而上学における<三>の重要性は誰の目にも明らかだろう。すぐに気づくのは、この三性(three-ness)は――もっと的確で印象深い表現はないものか、<三位一体>というと少し違う――カテゴリーの二項対立的編成を超え出る方法であることだ。(真と偽、悪と善、美と醜…などの二項対立は生きられる世界をいわば芝居の書き割りにすりかえてしまう。)
 他方、同じ三性を重視するヘーゲル哲学が、二項対立構造を<定立・半定立・綜合>という螺旋状の運動――結局はリニアーな進歩主義(progressism)――のなかに温存してしまったのとはうってかわって、パース形而上学はまさしくこの<三性>によって内部への密着(adherence to the inside)を可能としたのである。
 こうして見ると、パースの形而上学は(少なくとも科学の時代において)内部存在論(endo-ontology)を自覚的かつ積極的に唱えた初の例ではなかろうか。
 記号機能が三項関係をなすとは次のようなことである。記号(sign; representamen)は解釈項(interpretant)を媒介にして対象(object)を表意する(stand for)。記号はつねに現前する何か――皿の上のリンゴ、ある音響、紙上に記された何かのデザイン、天空に湧きあがる雲、一定の仕草など――であり、この種のモノが現前しない別のモノへのアクセスを可能とするとき、初めのそのモノは、<記号>という存在身分のタイトルを帯びることとなる。解釈項の仲立ちがなければ、記号もなく記号によって表意される対象もない。それゆえ記号過程に関するあらゆる要素が<内部>――人により環世界Umwelt、記号環境semiotic enviroment、記号圏semiosphereなどと呼ばれているが――に属することになるだろう。
 解釈項はそれ自体が記号である点に留意しなくてはならない。したがって、解釈項が記号過程を媒介するということは、記号が記号によって媒介されるということだ。このかぎりで記号過程には際限がない。記号過程は原理的に無限をかかえこんでいるのだ。
 <内部>は<外部>に対してだけ有意味になるのではなかろうか。記号にとって<外部>がないのはおかしくはないか。それにしても記号過程が及ぶ範囲にとって<外部>とは何だろうか。確かなのは、それについて我々はいかなる想念も持ち得ないということだ。なぜなら、想念(notions)とは、パースによればやはり記号にすぎないからである。結局、我々が見出すのはただ記号と無以上ではないだろう。ところで、無とは何でもないものだから、とすると我々は徹底的に記号の<内部>に住み着いているわけだ。要するに外部は無い。記号学が内部存在論であるゆえんである。
 しかし同時に、外部は語られるものではないが、切実に予感され請われるものでもあると言わなくてはならない。なぜなら、名状しがたいもの=潜在性のカテゴリーが完備した形而上学にとって不可欠の項だからである。
 記号の構造に立ち返ろう。注目すべきは、モノへのアクセス可能性をパースは本質的に<論理的な>うごきと考えていることだ。従って、<現前しないモノへのアクセスすること>を普通の論理学の用語を用いて<推論>(inference)と言えるかもしれない――いやまさにパースの洞察はこの点を措いて他にはない。
 医者が患者の一定の症状を消化器官の病気として診断するとき、医者の営みとしての<診断>とは何だろうか。それは、現前する症状を記号として前提し、そこから診断学の認識システムに依拠しつつ一定の病態を<推論>によって導出する記号過程(semiosis)であるに違いない。もちろんこの<推論>が単なる演繹ではないことは明らかだ。にもかかわらず、パースがこれも論理的な推論の一種と見なしている点がまさに重要なのである。記号構造の三項関係を診断の例にあてはめれば、記号−症状、解釈項−診断のプロセス、消化器官の病気−対象、という対応があることがわかるだろう。
 ちなみにこの種の推論は、伝統的な学問の部門わけではロギカ(論理学)ではなくむしろレトリカ(修辞学)の領分にあったといえる。当然のことながら、<帰納>や<アブダクション>に関しても修辞学的考察が必要となるに違いない。別種の推論の形式としての<アナロジー>つまり<類推>に関しては、伝統的に修辞学が扱ってきたという歴史がある。
 こうして、パースによれば、<習慣>とは、基本的に記号過程のうごきを規制する論理のことである。