パースの形而上学(連続主義)

namdoog2006-04-08

 世界制作論にパースの習慣論を組み込むためには、パースの形而上学的思索の要点を(不十分にせよ)押さえておかなくてはならない。さしあたり2点をあげておく。
 第一はパースの形而上学がカントの超越論哲学の正統な後継者であるという点だ。大学在学中のパースは『純粋理性批判』のほとんど全文を暗記するほどカントに熱中していたと伝えられる。彼のカント解釈によれば、超越論的意識による経験の構成がそのまま物自体に的中しているという。(グッドマンの語法では、ヴァージョンがそのまま世界に匹敵する、いや世界そのものだ、ということになるだろう。)
 第二に、パースは単なる職業的哲学研究者などではなく、19世紀の科学ないし学問における革新と統合の動向(いつくか例をあげるなら、電磁気学、熱力学、集合論、パース自身その創始者の一人であった述語論理、等)を体現した人物であったという点である。すなわち、彼による形而上学の構想は、著しい発展をみせ総合化をとげつつあった<科学>が不可避的に要請したものなのである。
 注意すべきは、科学をまずは<物質科学>と<精神科学>に分けるのにパースは反対しないものの、結局のところ(in the last analysis)彼が物質と精神の<連続性>をつよく打ち出す立場(連続主義synechism)をとったという点だろう。彼は唯物論者なのか、それとも観念論者なのか――連続主義を正面から受け止めれば、こうした問いは発すべくもないだろう。彼が連続主義の存在論として記号論を提唱した真意はここに存するのではないか。もしそうなら、ここでパースとグッドマンがふたたび手を携えることになる。パースは藝術へはあまり言及しないが(反対に、科学と藝術をともに認識の形式とみなすのは、グッドマンのオリジナルな主張である)、森羅万象を<記号>の観点から徹底的に(radically)捉え返すという形而上学の構えにおいて、両者は軌を一にしている。
 話がすこし一般的になりすぎたかもしれない。以上を前置きとして、<習慣>にまた焦点を絞りたい。