記号の定義をやりなおす
<記号>の古典的定義を紹介しながら、記号の存在構造をどのように捉えたらいいのか、若干の観察を施したい。すなわち古典的定義によれば、記号とは<他の何ものかを代表する何か>(something which stands for something else)である。これにはしばしば実在論的な読みが施されてきた。モノとしての記号とやはりモノとしての記号の対象がともに世界に実在し、記号はこの対象を指示するかぎりで記号となる――言語的慣習のおかげで――とされるのである。しかし実在論的な読みが好ましくない点は、周知のようにソシュールが懇切に説いたところである。
この誤解を避けるために、記号の定義に重大な修正を施したい。
改定したこの定義には記号の存在構造が透けて現れている。つまりソシュールが強調した<二重性>のことである。何かがそのとおり何かであるという自己同一性=一重性から逸脱していること、何かがただちに他の何かによって裏打ちされてしまうという二重性――こうした構造が問題なのである。
この記号的二重性を現象学から捉え返すなら、次のように言えるだろう。すなわち、記号とは、現前するものとは別のもの(=現前しないもの)へのアクセス可能性である、と。(ここに、記号がモノではなくてプロセスでありハタラキであることが明示されている。)一般に記号性とは<無媒介に直接現前することの否定性>、換言すれば存在構造の<媒介性>なのである。そして論理的観点から同じ事態を見れば、直観に仮託された直接的無媒介性ではなくて、パースが見抜いたように、<推論性>なのである。
我々が推論に身をゆだねる場面には必ず記号の出現がある。このパースの洞察が記号学の基礎の一つにならなくてはならない。