テレビ式世界制作(TV-way of worldmaking)という問い

namdoog2006-05-13

 日本記号学会大会の初日のプログラムが実施された。テーマは「<記号>としてのテレビ」。「テレビ記号論とは何か」と題されたオープニング討議は、フランス、韓国からゲストを招いて行なわれた。その後に<ラウンドテーブル>として「テレビ・コンテンツ研究の現在」についてメディア分析の専門家たちの発表がなされた。ここでは前半の討議にかかわる個人的感想を記しておきたい。
 テレビ記号論に従事している現役研究者の報告は難解だった。各人の議論がどのような実際面の要請に基づくのか、その目的は何なのか、それが分かりにくかったせいだろう。我々は現にテレビを観ている。<テレビ記号論>というからには、このテレビ経験を記号論的記述に移し変えることが第一目的となるだろう。そうした見地からして、今日の議論がテレビ経験に追いすがり追いついているかどうか、かなりおぼつかない点がある。テレビはいま、<放送と通信の融合>が現実の政策課題になるほど、そのあり方を変容しつつある。そうした問題意識がやや希薄のようにおもわれた。<お茶の間のテレビ>をテレビの典型と見なす議論などはアナクロニズムではなかろうか。
 テレビというメディアを世界制作論(the theory of worldmaking)から分析するとしよう。そのとき攻略すべき問題がくっきりと焦点を結ぶはずだ。<テレビ>は――古典力学が世界をある仕方で制作するのと同様に――世界制作の固有な(sui generis)やり方を与える。ではテレビの事実に即して、それはどういう仕方(TV-way of worldmaking )なのか。テレビ記号論はこの点を解明すべきである。
 それではテレビを取り巻く<環境>をどう扱うべきか。<オーディエンス>がテレビの存在構造に果たす役割は何か――これらの問いは、世界制作論としてのテレビ記号論においては起こりようがない。というのは、世界制作のメディアとしてのテレビにとっての<外部>――そこに環境やオーディエンスなどが帰属するとされる――は原理的に欠落しているからである。ちょうど時空的規定性やそもそも時間と空間の次元性を世界の<外部>に基準として設定し、これを用いて世界と世界とを比較したり統合したり一方を他方のために消去したりという世界制作上の操作が意味をなさないのと同じである。
 別の言い方をしてみよう。世界制作はそれ自体が全体性における一個の記号過程なのだ。記号とは記号過程である(パース)。例えば<写真>という記号系のありかは、所産としての印画紙、カメラ、照明、現像と焼付けのプロセス、写真の提示の仕方(アルバム中にあるのか、ギャラリーに展示されるのか、等)などのあらゆる写真=記号過程の要因のセットのうちにしかない。もちろん何を要因に含めるかがアプリオリに決定されているわけではない。この不確定性を調べるのは、写真の歴史記号学の任務となるだろう。(詳細については、筆者の『恣意性の神話』勁草書房、第Ⅱ部<示し>の記号論、を参照。)