知覚のインタフェースが引き渡すもの、記号

namdoog2006-05-10

 人間にとって知覚(perception)は実在への唯一無二の窓である。自然科学者にデータが届けられるのは、当然のことだが、このインターフェイスを通じてである。問題は自然科学だけではない。どんな知的探究でも、それに従事する者は必要なデータを自分の眼や耳を遣って収集するほかはない。しばらく視覚(visual perception; sight, vision)に議論を限ろうとおもう。なぜなら視覚はインターフェイスのタイプとして最も優勢だからである。
 ただちに明らかになるのは、<人は知っているものしか見ない>ということだ。(かつての実証主義者たちが、どうしてこれほど素朴な信念――科学者は観察や実験を実施して<無垢のデータ>=理論的規定性や先入主から全面的に免れた純粋なデータを採集することができる、という信念を抱くことができたのか、不審に耐えない。)
 例えば、CT(コンピュータ断層撮影)あるいはMIR(磁気共鳴映像法magnetic resonance imaging)のことを考えてみよう。大脳を輪切りにしたものだというモノクロの画像を、素人の私がいくら目を凝らして見たところで、そこから病気に関する事実を発見できはしない。ところが診断学を理解しかつ臨床経験を積んだ専門の医師が見ればたちどころに脳の病変がまさに画面のなかに<見える>のである。この限りで医師の視覚は、裸の眼による=無媒介的な視覚ではなく、理論を荷った(theory-laden)視覚にほかならない(ハンソン『知覚と発見』上下、紀伊國屋書店、参照)。(他のタイプの事例については、各自で考えていただきたいが、後に言及する予定でいる。)
 医師が画像において見出すものは、ある種の図形であると同時にこの図形の外部のものへの差し向けである。この図形が<現前するものとは別のもの(=不在のもの)へのアクセス可能性>を体現するかぎりにおいて、それは紛れもなく一種の<記号>である。ではどんな記号なのだろうか。それが<徴候>(symptom)というタイプの記号なのは明らかだろう。(そもそも<記号>(sign)の最古の意義は<徴候>であった。)
 以上の例証から導けるのは次のことである。すなわち、<知覚への所与>は一般に<記号>という存在カテゴリーに属するのだ。かくして<所与>は直接与えられるものではなくて、解読されるべきもの(something to be decoded)だということが分かる。(すなわち、本来の意味での<所与>などは存在しないのだ。)同じことはパースがいち早く定式として掲げた。すなわち、存在者=存在するもの(being)は――それが認識と思考の対象であるかぎりで――<記号>にほかならない。我々はここにパースの記号主義の確立を認める。