理論制作・アブダクション・帰納

namdoog2006-05-06

 <理論>とはどのような記号系なのだろうか。
 何か不可解な出来事を目前にしたとき、あるいは当人には必ずしも不可解ではないものの、他人からその出来事について説明を求められたとき、我々は理論的言説(theoretical discourse)を企てる。理論的言説とは、「なぜなら」、「のせいで」、「もし〜ならば」などの理論的語彙からなる語法(language)――つまり出来事の<条件>、<根拠>、<原因>などに言及する語法のことである。端的にいうなら、この語法は<因果性>(causality)を語るそれだといえるだろう。それというのも我々は<物理的原因>と<心的根拠>=<理由>という近代的区分をまだ踏まえてはいないし、今後もそうするつもりはないからである。(古代ギリシアにおいてロゴスという語は<理由>と<根拠>はもとよりその他多くの語義をそなえていた。この事実は示唆的である。)結論として、<理論>に以下のような定義を与えることができるだろう。すなわち、理論とは主題にともなう因果性を語ることによって=この語りに具現した(in saying)<説明>を演って見せること=このような類の言語行為にほかならない。
 ここで<科学的説明>に関するヘンペル(C.G.Hempel)らの標準理論(1948)――それは「演繹的=法則論的説明(deductive-nomological explanation)」と呼ばれている――に目を向けることにしたい。多くの人がこれを受け入れまた議論の対象にしてきたし、実際に<説明>の仕組みを(完璧ではないにしてもかなり巧みに)闡明しているからである。(ちなみに括弧の中で限定を加えたわけは、ヘンペルらが<理論>の修辞学的な仕組みに無関心だからである。<説明>はそれ自体が修辞学的言説であるにもかかわらず。科学理論の修辞性については、例えば次の研究が先鞭をつけている。M.ヘッセ『科学・モデル・アナロジー培風館
 この理論によれば、一般法則のセット{L1,L2,…Lk}と前提条件のセット{C1,C2,…,Cr}から、説明されるべき事態の記述Eが論理的に演繹されるときにかぎり、Eは{Li}と{Cj}を説明項とするところの被説明項になる。また、与えられた事態の記述が、{Cj}に含まれるどれか条件と一致したとき、この条件と{Li}のどれか、または全部とのセットから論理的に演繹されるEがあり、このEが予測の内容となる。
 例にそくして考えよう。例えば、<全ての大ガラスは黒い>(All ravens are black)という全称命題は、日常的な感覚知覚の観察レベルに位置しているかぎり、<法則>というより単なる経験的一般化の表現でしかいない――これがセラーズを含めて多数の論者の言うところである。我々は日常的な感覚知覚のレベルと科学的分析のレベルとの相違をあながち否定するものではない。しかし、法則性の発見にアブダクション帰納が必ず関与するかぎりで、日常的知覚も科学的分析と異なることはないのだ。ある形態をした鳥でかくかくしかじかの振る舞いをするものを何羽か目撃し、これらをすべて<大ガラス>とカテゴリー化すること。それはカオスの中に一般性と規則性を見出すことであり、その意味で経験されたものへの<法則性>の付与なのである。素材(materia)の中に規則性を発見するどんな法則化の認識も、まずもってカテゴリー化の階位を経なくてはならない。
 理論のモデルを仮言形式の全称命題として捉えることはまた新たな問題を招きよせるだろう。いまはその一つに触れるにとどめざるを得ない。
 この全称命題を論理式として(x)(Rx→Bx)と書くことができる。この対偶をとれば、(x)(〜Bx→〜Rx)という等値の式が得られる。これが言っているのは、<すべての黒くないものは、大ガラスではない>ということだ。これはパラドックスではなかろうか。(実際にヘンペルはそう考えた。)例えば、大ガラスの啄ばむ柿が実っている樹があり、その葉に青虫がいることがわかる。この青虫は確かに黒くはないしカラスでもない。それではこの青虫についての記述は、<全ての大ガラスは黒い>という命題を裏書する証言になるのだろうか。ところで、黒くないものでかつカラスではないものを見つけるために野外に出かけるには及ばない。安楽椅子に座っているだけで、その種のものはいくらでも見つかるからだ。例えばこの白い紙。この紙をa,<黒い>をB,<大カラスである>をRとおくと、〜Ba・〜Raは真である。これは〜Ba→〜Raを含意するので、(x)(〜Bx→〜Rx)が確証される。しかしこれは、(x)(Rx→Bx)に同値な命題なのである!
 論理学を信じる限り、青虫の発見は大ガラスに関する全称命題の確証に――但し無益にもin vain――寄与するというほかはない。これは、<帰納>を純論理的に基礎付けうるというはかない望みを、金輪際捨てなくてはならないことを意味する。