世界制作・アブダクション・帰納

namdoog2006-05-02

 アブダクションあるいは仮設形成(abduction)と帰納(induction)という二つの推論形式は、じつは内的につながっている。この連携の仕組みを調べることによって、我々は世界制作のダイナミズムがいくらかでも明らかになることを期待できよう。
 人間が世界を生きる様相――ハイデッガーのいう<世界内存在>(In-der-Welt-Sein)の様相――は、<世界生成>の基軸とのかかわりにおいて(さしあたり)二つの相のもとに顕れると捉えることができる。すなわち<世界>は(さしあたり)<制作されつつある世界>(the world in the making)と<取りあえず制作された世界>(the world provisionally made)とに二分されるだろう。大抵の場合、我々は後者の世界に住み込んでいる――とはいえ、この言い方はある種の同義反復にすぎないだろう。なぜなら、<世界に住むこと>という事態が(何ほどか十全に)実現したときには、すでに世界は制作されていたはずだからである。すなわち、<私が世界に住むこと>と<世界の到来>はただ一つの――さながら降臨ともいうべき――事態であり、つねに完了相のもとに実現される=実感される(realized)ほかないからである。
 私たちは気づいたときにはすでに<<取りあえず制作された世界>に住んでいた>と回顧されるのだ。しかしながらこの世界も万物流転の例に漏れることはない。異象がしげしごと生じるようになると、世界はその土台をゆるがされる破目になるだろう。(異象の存在論的身分は何か、その潜勢力は何に由来するか、などの問題については筆者の「人間はどのように<世界制作>をいとなむか─本質と曖昧なもの」(『いのちの遠近法』新曜社)を参照していただきたい。)このようにゆらぎを介して、この世界は新たな世界へと変容せざるを得ないのである。ゆらぎの只中で変身を遂げつつある世界を<制作されつつある世界>と呼ぶことにしたい。
 アブダクション帰納とは、推論の形式として、これら二つの世界がかもすダイナミズムに正確に対応している。まずパースから引用しよう。
 「アブダクションは驚くべき事実を説明するためにある理論が必要だと感じるところから誘発されるが、しかし最初は特定の理論を考えずに、その驚くべき事実から出発する。帰納は、その理論を支持するために事実が必要だと感じるが、しかし最初は、特定の事実を考えずに、自己の真理をそれだけで主張しているように思えるある仮設から出発する。アブダクションは理論を求める。帰納は事実を追究する。アブダクションでは事実を検討することによって仮設が提案される。帰納では、その仮設の検討からまさにその仮設が指示してきた事実そのものを明らかにするような実験が提案される。」(7.218
 まず、アブダクションとは、新たな習慣を形作るために遂行されるアクロバティックな身体的所作である。例えばかつてカラスの一羽すら生息していなかった世界に嘴の尖った、全身が黒づくめの、賢い鳥が出現したとしよう。この未知の、異なる(anomalous)鳥はいったい何者なのだろうか。指示代名詞<これ>を用いて名指すしかすべのない私は、その時点で私に参照が許された鳥類学のあらゆる知識やこれに関連するすべての知識を検索し動員するだろう。やがて飛躍のときが到来する。許された知識の限界を一挙に飛び越えつつ私は<これはカラスだ>という命題に移動する。このとき一つのアブダクションが遂行されたのである。このようにして、古い世界の綻びが修復されたことになる。それはまた私の知識の所作(cognitive gesture)が新しい習慣を得たということでもある。言い換えれば、安定して持続性のある<信念>(belief)=性向(disposition)を形づくったということである。
 パースの認識論によれば、認識はつねにある種の否定性にほかならない。我々が知識を得たいと欲するのは、何事に関してでも、それについて疑念(doubt)を抱くことに起因している。疑念というメンタルな状況に、当然のことながら、人は戸惑い苦しむ。そして何とかしてこの苦境を脱しようとして認識の獲得を企図するのである。うまくいって問題が解消されたなら、疑念は拭われ安心(easiness, tranquillness)が得られるだろう。なぜなら、新たな信念――それによって疑念は打ち消される――が形成されたからである。この疑念解消のプロセスは、すなわち新たな習慣獲得のプロセスなのである。
 さて次回にふたたびこのカラスと酷似した真っ黒な鳥が出現したとしよう。それは細かに見れば前回の鳥とはやや大きさも形態も異なるが、その違いが重大な意味があるようには思えない。別の機会と別の場所で、三度、私は最初の鳥に酷似する鳥類を目撃する…。これらの類似する鳥どもを調べて見たとき、私はすべての事例が<カラス>としてカテゴリー化できるという仮設に達する。こうして私は帰納という推論方式に従って<カラス>のカテゴリーを一般性において確立するのである。
 それでは<帰納>を世界生成というモメントに鑑みてどのような事業だと見なすべきなのか。一言でいうなら、帰納アブダクションの習慣形成をふたたび強化し検証する働きにほかならない。グッドマンが<習慣の守り>(entrenchment)というゆえんである。
 このように、アブダクション帰納とは一対をなす世界制作法なのであり、セットにされて初めて完結する推論方式なのだ。帰納による事実の発見がすでにアブダクションの裏打ちを必要としているし実際にもそうである。例えばケプラーの法則は単にティコ・ブラーエの観測データを帰納によって一般化して得られたものでは決してない。それは円を宇宙の原理と見なしていた古代・中世の世界像から<楕円仮設>へのアブダクションのたまものなのである(米盛裕二『パースの記号学』、勁草書房、179頁)。単なる<帰納的一般化>などで仮設や法則が導出されるわけではない。
 さて残された論点の一つに、アブダクション帰納のセットを賦活する<身体的想像力>という問題がある。これについては別の機会に調べることにしよう。