いつ贋作か――贋作の記号学メモ 6

namdoog2009-02-05

贋作の「鑑定」

 聖マリア教会祭壇の画像がマルスカートの贋作であるという証拠についてはすでに述べた。祭壇上部の壁に絵が描かれている羽目について、その上部と下部の状態が異なるのである。上部では、修復が中世のモルタル層にとどいていないことが確認された。それゆえ、「古画」と称された彩色は中世以後の地の上に描かれていることになる。

 ここでしばらく考察を「贋作の鑑定」というテーマに絞ることにしたい。例えば、画商がある絵をフェルメールの真作という触れ込みでオークションにかけようとしたとき、鑑定家が贋物と判定してそれを撥ね付けたのどうしてなのだろう。

 マルスカート事件には考察のための素材が数多く含まれている。シュレスヴィヒ大聖堂の壁画の場合、シュタンゲ教授なるエキスパートはこれに本物のお墨付けを与えたのだが(1940年当時)、後年、教授の鑑定を再吟味した結果、彼が犯したまことに滑稽な間違えが数多く見つかった。

 壁画下方の縁を装飾する「動物メダイヨン」があるが、これについて教授は「これは中世に見られる空想の動物」であり、「これらの描写は…高度に独創的な観察に基づいている」とする。(ちなみに「メダイヨン」(medallion)とはここでは円形状の壁面装飾をいう。)

 問題の動物が、曲がった嘴、鋭い足爪、尾羽などの形状描写から「雄の七面鳥」であることは一目瞭然である。壁画の他の画像は、王、聖者、騎士、さらに実在する動物や幻獣などのように、それらが中世のものであることを疑わせる要素はない。

 だが「雄の七面鳥」だけは中世の画家に描けるはずはないのだ。なぜというと、七面鳥は、1550年にコロンブスが新大陸からヨーロッパに持ち帰って以降に西洋で知られることになった動物だからである。いくら中世の画家が想像力において秀でていても、これほどリアルな七面鳥を描けたとは信じられない。(論理的可能性をいうなら、ありえないとは断言できない。だがその種の想定には非常な無理がある。)

 真作というふれこみの画像を贋作だとする「鑑定」はどのような手続きでなされるのか。一般に「鑑定」が依拠する原理をネルソン・グッドマンは次のように定式化している。「[ある作品が]本物かどうかを確かめる唯一の方法は、それが[真実の作者が描いた]真作であるという歴史的事実を立証することである。」この原理を以後鑑定のための《歴史的基準》と呼ぶことにしよう。

 もし祭壇画が本物なら、七面鳥が描かれるはずはない。なぜならその種の鳥は当時のヨーロッパにはいなかったからである。換言すれば、この絵は真作にかかわる「歴史的事実」に反している=歴史的基準に適合しないから、である。

 ところが問題は、贋作が場合により「歴史的基準」のチェックをすり抜けてしまうという点にある。

 はやばやと結論を言ってしまえば、「歴史的基準」の考え方は原理的には正しい。だが鑑定が経験的に遂行される認知活動であるかぎり、この種の基準の要請がつねに満たされるとは限らないのだ。言い換えれば、実際的観点からみると、歴史的基準は鑑定の決定打にはなりえない。この哲学的=認識論的論点については後にあらためて考察する予定である。

 鑑定のこの弱点を露骨なまでに証明したのは、「20世紀最大の贋作事件」と称されるフェルメール贋作の事例であろう。フェルメールの同国人にして画家のハン・ファン・メーヘレンはたゆまぬ精進と知恵を制作に注ぎ込んで「歴史的基準」に肉薄することに首尾をおさめた。「たがが二流の現代オランダ無名画家が、17世紀オランダ黄金時代の巨匠たちの知られざる傑作(とっそくりの贋作)を、大コレクターや美術史家の鑑定眼やレントゲン撮影検査さえ八回にも及んで切り抜けながらつぎつぎに描き、のみならず売りまくった」のであった(種村季弘『贋作者列伝』、200頁)。(上掲写真はメーヘレンの最大傑作の贋作「エマオの食事」)

 メーヘレンがどのようにして「歴史的基準」をすり抜けることに成功したかを具体的に見ることにしたい。(以下の記述の大半は、フランク・ウイン『私はフェルメール』(小林頼子・池田みゆき訳)、ランダムハウス講談社、2007年、に拠る。)

 17世紀の絵画を研究した知見から、メーヘレンは贋作制作のためのポイントを「鑑定法の基準」を逆手にとる形で定式化した。

フェルメールが使ったであろう顔料と絵の具だけを使用すること
フェルメールと同時代のキャンバスと張り材を使用すること
・アルコールテストに耐えるよう、絵の具層を硬化させること
・古画の徴候である絵の具層の亀裂を再現すること
フェルメールが使ったのと同じ素材の絵筆を使用すること
X線で何も見えなくなるくらい、素材の17世紀絵画をすっかりそぎ落とすこと

 フェルメールの時代に画家たちは絵の具を画材店で購入したわけではない。彼らは自分の手で顔料を作り媒材でそれを溶かして絵の具を作ったのだ。擂鉢や擦り棒で色のついた石や粘土をすりつぶしさまざまな油を媒材として試して発色や耐久性を確かめた。(彼らは単なる藝術家ではなく、化学者でもあり職人でもあった。)ちなみにいま多くの画家が使用している、蓋付き絵の具チューブが特許をとり発売されたのは1842年のことである。

 絵の具と云えば、フェルメールの絵画で特色をなすのは、ウルトラマリンの鮮やかな色彩である。彼はラピス・ラズリを原料にこのブルーの絵具を作った。工業化された近代の絵具ではコバルトを用いるが、こんな絵の具を使えばとたんに贋作がばれてしまうだろう。

 贋作者メーヘレンは母国オランダではこれを入手できなかった。結局彼はロンドンのウィンザーニュートン社で4オンスの原石を高価な値で購入することになる。

 その他の色彩についても古画に使われた絵の具を調達することができた。白はジンク・ホワイトではなく鉛白を使った。(しかしこの鉛白が後にメーヘレンの「フェルメール」がインチキであることの検証に決定的役割を果たすことになる。)

 そして彼は、画廊を尋ね歩いて17世紀の安価な絵画を手に入れた。キャンバスや張り枠が新しければそこから足がつくからだ。また描かれた絵をじつに根気よく削り取ることに成功した。X線透視でフェルメールの作品と矛盾する画像が発見できないようにするためである。

 フェルメールアナグマの毛の筆を使用した。メーヘレンは捜しまわった結果、アナグマの毛で作られたカミソリ用のブラシを見つけ、それで絵筆を手作りした。もしうかつにありきたりの絵筆を使用して、たった一本の筆の毛がキャンバスの油膜のどこかに紛れ込み、それを目ざとい鑑定家が見つけたら、ほかの諸点をすべてクリアしていても、メーヘレンの贋作は正体を暴露されてしまうだろう。贋作制作に使うのはアナグマの毛の筆に限るのである。

 こんな調子で彼は「完璧なフェルメール」作品を作るために一心に励んだ。まさに精励の人と言っていいだろう。この熱心さを自分の画業に生かすことができなかったのは、やはり真の才能がなかったのだと言わざるをえない。

(つづく)