フーコー・ブッダ・グッドマン (3)

namdoog2010-01-26

 グッドマンの「世界制作論」はフーコーの哲学――一口で全体のイメージにそぐう名称を思いつかないが、ひとまず「知の考古学=系譜学」と呼ぶことにしよう――と多くの共通点をそなえている。
 グッドマンによれば、ある主題は、存在論的かかわりにおいて異なる、たがいに両立しない多くの仕方で、同等に正しく体系化できる。この見地についてはいくつかの説明が必要だろう。
 「Xが存在する」という命題において、Xの位置に立ちうる名辞が世界にある何かしらのものをたしかに指示している場合、そしてその場合にかぎって、Xについて「存在論的かかわり」(ontological commitment)の資格を認めることができる。(フィクション、例えば小説については、そもそも「存在論的かかわり」が問題とはならない、逆にいうと、フィクションとはそもそもOCが問題にならない類の言説のことである。)OCの基準についてはさまざまな議論があった。よく知られているように「あるとは変項の値であるということだ(To be is the value of a variable.)」というクワインの定式が有力な考え方として受け容れられているが、いまは立ち入らない。
 グッドマンの翻訳の解説でも引いた例だが(グッドマン『世界制作の方法』、「訳者解説」、p.283.)、彼は上の見地を例解するためによく〈点〉をひきあいにだす。日常世界で経験される点に理論的表現を与えるとする。実はそれには何通りものやりかたがある(本当をいえば無数にある)。点を定義なしの原始概念としても、あるいは交わった一対の直線、または交わった三つの平面によっても、同じようにたくみに表現できる。
 最初の場合を除き、後のやり方がすべて「構成的」であることに注意しよう。つまりそれぞれは〈点〉をつくる処方(method of construction)を、問題の概念の定義、と見なすのである。概念のこうした構成的本性は概念そのものの存在性格について示唆するところが多い。
 三通りの仕方でそれぞれ整合的な体系ができるかぎり、「どの定義が本当に正しいのか」と問うのは意味がない。そしておのおのの定義をかかえこんだ別々の体系はたがいに翻訳がきかないのだ。
 ここでフーコーに目を転じることにする。フーコーはいつも「真理」の歴史を研究することの重要性を説き続けた。実際、彼の著作の大半はさまざまな主題にそくした「系譜学」、つまり主題にかかわる「真理の歴史」研究にほかならなかった。
 この記事の最初に言及した文献からフーコーの証言をひいてみよう(同じ主旨の言葉はフーコーの著作の、誇張ではなくいたるところに見いだされる)。

 我々は、その大部分が「真理に依拠して」機能するような、そうした社会に生きています。…真なる言説(それ自体絶えず変化するものとしての真なる言説)の確立という問題は、西欧の根本的な問題のうちの一つを構成しています。「真理」の歴史、真なるものとして受け入れられた言説に固有の権力についての歴史こそ、まさしく研究すべきものなのです。」(「性の王権に抗して」、『フーコー・コレクション5』ちくま学芸文庫、p.36.)

 ここでの論点は、「真理の相対化」であるとひとまず言っておこう。フーコーの「真理」へのこの構えはグッドマンのスタンスに酷似している。ただしグッドマンは、フーコーがなしえなかった「真理」概念の批判をやり遂げた上で、真理の相対化を遂行することができた。
 グッドマンによれば、「真理」の価値は単に言語の営みから生まれたものに過ぎない。絵画やダンスや音楽は「真」でも「偽」でもない。真でありうるのは、言語表現、それもその限定された形態に過ぎない。文法的な言い方をするなら、言い切りにされた平叙文だけが真理値を担うことができる。しかしながら、絵画はある意味で真理と関係しないだろうか――字義的ではなく比喩的に。グッドマンは、プラグマティズムの影響の下で、真理より包括的な認知的価値としての「正しさ」を打ち出した。このことによって彼はフーコーよりさらに徹底して「真理の相対化」を完遂できたのである。
 なぜフーコーが「真理の歴史」を(字義的な意味で解された)「言説」に相即させてしまったのか、フーコーもやはりロゴス中心主義を脱却し得なかったのか――この疑問について断案を下す用意はわれわれにはない。
 しかしながら、古典絵画に関するフーコーの観察(『これはパイプではない』豊崎ほか訳、哲学書房、1987年)は、少なくないヒントを与えている。フーコーによれば、古典主義者は、絵画と言語を表現の素性においてまったく異質なものと見なした。絵画は描かれた図像が実物に似ていなくてはならないが、言語の場合、言語表現はそれが代表するものに類似する必要はない。(ちなみに、グッドマン理論においては、表象原理としての「類似性」は無力化しているので、彼を――言語と絵画をある点において峻別するにもかかわらず――古典主義者とは呼べない。)
 二つの記号系(言語と絵画)は切断されることによって、かえって緊密に結合することになった、とフーコーはいう。たとえば、人がパイプの絵を見る場合、すぐさま「これはパイプである」と確言せざるを得ないというわけだ。(この「妄信」を暴露したのが、マグリットの「これはパイプではない」という絵画作品にほかならない。)
 さて古典主義絵画にそなわるこの類似と確言の等価性を打ち壊す最大の力を持ったのは、カンディンスキーの「抽象絵画」にほかならなかった。彼は古典絵画の原理を、実作を通じて作り直した功績によって、「現代絵画」の創設者の栄誉を担っている…。こうしたフーコーの行論には、「現代絵画は、真偽はもとより正しさ/間違いなどの認知価値とは無関係だ」という彼の了解が暗示されているのではないか。(逆にグッドマンの場合、絵画表現の歴史的変貌について、感受性が乏しいきらいがあるようだ。)
 議論の本筋にもどろう。グッドマンは明確に「ヴァージョンの複数性」を宣言する。すなわち、たがいに両立しないが、しかし同等に正しい複数の記号系(ヴァージョンversions)がありうる。だが「体系」(systems)を語ることが、記号からつくられた体系の背後に記号ならざる実在的世界を仮定しているとすれば、それは誤りだ。体系の外部に世界はない。あるいは、外部と内部の区別をいつでも絶対的に引けるとは限らない(つまり、事実上、そうした区別はない)。(ちなみにこれはとりわけ唯識楡伽行派が打ち出した仏説と実質的に同じだが、いまこの点を展開するいとまはない。)
 こうして、記号系は世界そのもののヴァージョンであり、複数のヴァージョンが数えられれば、「世界」もこの事態に呼応して複数存在することになるのだ。
 フーコーが「真理の歴史」を強調しまたグッドマンが「ヴァージョンの複数性」という多元主義を強調することで両者が軌を一にしていることを確かめることは重要だが、それで話が終わるのではない。真の問題は彼らがそうした学説を打ち出した動機と理由にある。
 筆者の理解するところ、彼らの相対主義はきわめて実践的な性格で彩られている。彼らはともども「なぜこのような現在なのか」という、基本的問いを持ちこたえつつ、哲学的営みを貫いた。人は〈現在〉を逃れようもなく生きなくてはならない。仏説によれば、現在はそのまま苦にほかならない。〈苦〉とは〈逼悩〉つまり圧迫して悩ますものであり、どうすることもできないものだ。にもかかわらず哲学は問わざるを得ない。なぜこの現在であって別様ではなかったのか。これは無意味な問いだろうか。そうは考えないという決意から、フーコーとグッドマンの哲学が始まる。(つづく)