フーコー・ブッダ・グッドマン (2)

namdoog2010-01-13

 

 グッドマンは、「世界制作論」という自らの哲学的構想が、近代哲学の主流をなすことを高らかに宣言しているが、同時にこの構想が〈記号主義〉を機軸として構築されたことも明確に謳っている。

 ……私は本書〔『世界制作の方法』〕が近代哲学の主流に属すると考えている。この流れは、カントが世界の構造に代えるに心の構造をもってしたときに始まり、C.I.ルイスが心の構造を概念の構造に変えたとき継承された。そして今、この流れは、概念の構造を、科学、哲学、藝術、知覚、そして日常談話とったいくつもの記号系(記号システム)の構造に置き換える仕事にあたっている。この動きは、唯一の真理と、不易で単に発見されるにすぎない世界を後にして、制作されつつある、多数の、正しい、衝突さえするヴァージョンないし世界へと向かうのである。」(邦訳『世界制作の方法』ちくま学芸文庫、p.15.)

 グッドマンはカントに近代哲学の(いちおうの)完成を見ている。つまり、デカルトの業績にとどめをさす「偉大な世紀」の哲学的達成において、古代・中世を通じて継承されてきた(何らかの形式の)実在論が内在化され、あらゆる問題が〈観念〉の地平で問われることになったのだが、この伝統がカントの超越論主義(Transzendentalismus)として最終形態ないし極限に達したのである。
 哲学はもうあれこれの実在するもの(存在者)について考究することはしない。むしろ、存在者が存立しそれについて認識できるために必要な条件を明らかにすること、これが哲学の任務になった。
 ルイス(Clarence Irving Lewis, 1883-1964)の仕事は我が国にはそれほどなじみがない(肖像写真を参照)。グッドマンが彼に言及しているのは、言うまでもなく、ルイスがハーヴァードにおける彼の師の一人であり、彼から学問的影響を被ったからである。ルイスの仕事はふつう二つの点で言及されるようだ。第一は、記号論理学を様相論理に拡張するのに大きく貢献した点である。第二にカント主義をプラグマティズムの見地から再編成しつつ認識論や価値論を構想したことである。
 カントと同様、ルイスは「所与」である一通りの〈感覚経験〉がカテゴリー体系ないし概念枠組みによって秩序づけられるとした。しかし精神(mind)にそなわるカテゴリー体系が直接に〈経験〉を規定するわけではない。それは人間の経験解釈を制約する体系である。もしこの解釈がうまくゆかない場合――経験を解釈できない場合、すなわち感覚経験をカテゴリー化できない場合――新たなカテゴリー体系をつくる必要がある(これはカントとは異なるルイスのカント主義の論点である)。
 プラグマティックな観点から解釈のための新しい概念構造を創出しなくてはならない――この構造を彼は「プラグマティック・アプリオリ」(pragmatic a priori)と呼んだ。実際にルイスは、複数の様相論理の体系をつくることが可能であることを示した。(これも、カントが唯一絶対の論理学を信じていたことに反する、ルイスのカント主義の論点である。)選択肢のうちでどの論理体系を選ぶかを決定するのは、プラグマティックな要因(行動の目的への実際的効果、利害、関心など)にほかならない。
 ルイス哲学の詳細はさておき、以上を見ただけでそのグッドマンへの影響の跡は明らかだろう。存在論に関していえば、論理体系の複数性はそのまま存在論の複数性(「一通りではない世界(worlds)が存在しうる」)を意味している。なぜなら、存在者は論理的構成(logical construction)であって、構成の手法(論理体系がこれを規定する)は一通りとは限らないからだ。
 ところで論理学とは記号系の一種である。――ここからグッドマンの「記号主義」まではほんの一歩に過ぎない。しかも、人間が生きるプラグマティズム(lived pragmatism)は、人間生活のために、論理学以外のあらゆる記号系(知覚、科学、常識、藝術など)を目的に応じて動員する。こうして、概念構造(論理学)を基礎とする形而上学(ルイス)が記号系を基礎とするグッドマンの形而上学へ拡張再編されることになった。
 グッドマンの世界制作論を「われわれはヴァージョン(記号系のシステム)をつくることによって世界をつくる」という命題に要約することができる。「ヴァージョン」も「世界」も複数形で言われている点によくよく注意しなくてはならない。われわれの「現実」はこれら複数のヴァージョン(versions)つまり世界(worlds)から成っている。
 世界制作論の、フーコーの「知の考古学」との微妙でしかも決定的な違いがここに横たわるように思える。どちらが正しいとかいいとか性急に判定を下すつもりはない。問題は、両者の違いを直視し、われわれとして向かう方向を定めるための参考にすることである。
 フーコーは、歴史における「エピステーメー」の変容、認識論上の「切断」と非連続性あるいは変形を探り当て、歴史の実質を多重な層と複数の系列と出来事から成るものと捉えた。この見地にはグッドマンの〈複数の世界〉の観念とかなりな程度に共通する側面がある。
 しかし彼の著作(初期の『狂気の歴史』から『言葉と物』をへて最後の『性の歴史』まで)が掘り起こし解明したのは、西洋の歴史に限られている。しかも切断と非連続性によってある時代と別の時代とを画するという手法は、西洋史における時代区分の観念と――実質は別物だが――発想としては似ている。
 グッドマンの世界制作論はこの種の歴史主義とはいちおう独立である。換言すれば、〈世界〉は縦断的に累積されるものだとは限らない。ある世界を横断的に別の世界(例えば、異文化の世界)が侵す様相を世界制作論は充分に取り扱うことができる。
 これに関連して想いだされるのは、1978年に来日したとき、フーコー吉本隆明マルクス主義をめぐる対話を行ったことである。(「世界認識の方法」「海」1978年7月号(『世界認識の方法』、中公文庫、1984年、所収)を参照。)この対話でフーコーは、自分の視野が「西洋史」や「西洋哲学」に限定されていることを思考の制約として自認しているように思える。吉本による問題提起(「意志の問題をマルクス主義が解明していない」)をフーコーは肯定している。つまり「西洋哲学」は「意志の問題」を正面から問うことを怠ってきたという。これはいわば「西洋哲学」にコミットしてきたフーコーの「反省の弁」と解することができるだろう。――この挿話は、「知の考古学」が言説の横断的運動に対して無力であることを暗示してはいないか。言説のプレートテクトニクスが構想される必要がある。
 だがフーコーの「考古学」には「世界制作論」にはない特色がある。(後者がその要素をまったく欠く、というのは言いすぎだろうが、少なくともグッドマンが主題化していないのは確かである。)フーコーの探求は、系列が折り重なり断層をなす歴史の〈アルシーブ〉(グッドマンの〈ヴァージョン〉にほぼ相当するだろう)の解明にはとどまらない。彼の「知の考古学」は、「系譜学」(généalogie)〔< genea=race + logia ;系統、血統についての話、起源についてのロゴス〕つまりカテゴリーや概念の「因縁」ないし「縁起」を明らかにする言説とセットになっている。このフーコーの見地がグッドマンの世界制作論に何が不足しているか、あるいはフーコーの教説が、グッドマンよりむしろブッダの教えに近いという事実を示している。 (つづく)