グッドマン哲学への最良のコメントを読んだ

namdoog2006-03-21

 ここに採りあげるのは、心理学者ジェロームブルーナー(J. Bruner)の『可能世界の心理』(田中一彦訳、みすず書房)という一冊である。(詳しく言うと、特に第七章で集中的にグッドマンが論じられている。キャロル・フィルドマンとの共同執筆。)これまでも哲学者――そこには大家も若手も含まれる――がグッドマンの記号主義哲学に加えてきた発言は少なからず参照してきたが、この高名な心理学者の文章ほど記号主義の核心を言い当てたものはないという印象をもった。重要な論点をおもうままにとりあげ筆者サイドからすこしばかりメタ・コメントを付け加えておきたい。

 グッドマンの思想のポイントが「構築主義」(constructionism)にあることは誰でもが言うことだ。しかし問題は、<世界>あるいは彼のいう<ヴァージョン>が①何に基づいて②どのように「構築」されるか、という点であろう。
 
 はじめの点についてグッドマンは、同時代の不世出の哲学者セラーズ同様、「所与の神話」をものがたる。とりわけ近世の哲学者が異句同音にもちだした「純粋所与、絶対的直接性、概念なき知覚、基体としての実体、センスデータ」などはあるべくもない(反基礎付け主義)。すなわちグッドマンは、「実在」からその存在的意義(エンティテイとしての意義といえばいいかもしれない)を消去してしまう。その結果として、「実在」は記号系の機能が要請するもの、記号系が機能するための「条件」にすぎなくなる。何が真実の「実在」であるか、という問い――実在をめぐる問いは、material modeで語られるべきではないということだ。

 あらゆる「実在」が蒸発したあとには何が残るのか?我々は無に直面するのか?あるいは観念論者のいう「観念」ないしその類似物だけが残されるのか?そうではない。目の当たりにするこの世界は依然としてリアルにここにいま存在する。ただしこの世界――英語でthe worldと表現するかぎり、何らか個別的で唯一的なものとみなされている――が「実在」だというわけではない。これもまたある記号系の所産としてのヴァージョンを「変形」という記号操作を加えて制作された別のヴァージョンにすぎない。(ここでグッドマン記号主義は、後期フッサールなどの現象学とは袂を分かつ。)

 すでに我々は②に答えを見出している。世界制作はつねにまたすでに別の世界への記号的変形にほかならない。世界への変形が新たな世界を到来せしむることになる。さて我々は現象学の言い分にも幾分かの道理をみるべきだ。おなじ構築主義の源流であるカント主義においては、構成する意識に<アプリオリな実在化機能>を授けている。この措置に多種多様な困難がつきまとうことは今ここでは採りあげない。我々が向かうべき方向を端的に述べておくだけにしたい。<アプリオリな実在化機能>は身体性の次元に属している。身体と(とりあえずその)環世界(Umwelt)をセットで概念化することで、カント的意識主義を超えなくてはならない。このやり方はグッドマン記号主義とも相性がいい。なぜなら、①グッドマンにおける、記号機能における<文脈>の意義あるいは記号機能の自己組織性は、意識のことがらというより、さらに深部の生命のことがらだからだし、②グッドマンが強調するヴァージョンの変形はニュートン的絶対主義とはあいいれない。むしろ発達心理学における<発達>や生物学における可塑性にとむ<発生>のロジックは身体ないし生命のことがらだからである。

 ブルーナーのコメントに追加すべきポイントにはいまざっと数え上げると、①グッドマンにおける<指示>(reference)の形而上学的意義、②世界とヴァージョンの異同、③記号系の機能における<再帰性>(recursion)、④人間の記号実践における<習慣>の問題、などがある。これらの問題については機会があり次第書くことにしよう。

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