とは何か?――記号の存在論の問い

namdoog2006-03-22

 ブルーナー『可能世界の心理』という書名のオリジナルタイトルは、Actual Minds, Possible Worldsとなっている。訳の是非はともかくとして、原題にこめられた趣意に敏感であるべきだろう。すなわち、ブルーナーは心理学者として当然のことながら――本書の処々で明言されているように――心なるもののリアリティを突き詰めて考えようとしている。そのかぎりで彼はリアリストである。言い換えれば、現に存在して働いている(=アクチュアルな)心を信じているのではないか。(ここが行動主義心理学との相違点である。)この心をいわば資源=始原として、さまざまなに可能な世界――日常世界、藝術の表現する世界、科学的世界などなど――が発出する(あるいは、端的にこの書で用いられている術語でいうと、「構築される」)。もちろん心理学者としてブルーナーは、心から世界がいわば紡ぎだされる、そのありようを明らかにしようとするのだ。この原題には、ブルーナーの<心理学の哲学>が語られていると読むことができるし、そう読んだほうがいい。(『可能世界の心理』はやや遠まわしで靴を隔てて痒いところを掻く、という趣きがある。)
 それはさておき、ブルーナーはグッドマンの記号主義哲学に関して、じつに正確に、さまざまな論点を指摘している。そこには例えば、①グッドマンにおける<指示>(reference)の形而上学的意義、②世界とヴァージョンの異同、③記号系の機能における<再帰性>(recursion)、④人間の記号実践における<習慣>の問題、などが含まれている。
 ①について、少しばかりこちらからコメントを試みたい。世間の人はじつに気軽に「記号」について語っているが、さて記号の存在論について問い質してみると、記号の事例(言語、看板、交通信号などなど)をあげることでお茶を濁すか、または学識のある人なら「記号とはある種の事物であって、それがそれ以外の事物を指示しているような事物である」という類の古めかしい(由緒ある、といってもいい)定義を持ち出す。しかしこれは話が顛倒しているのだ。ある事物が何かを指示するときに、それは<記号として>生起したのであって、見詰めるべきはこの<指示>の機能であって、それが発動する以前から存在を仮託された<記号>なる事物などではない。
 このことを明らかにするためには、グッドマンから一例をあげれば充分であろう。高名な画家が描いた油彩画があるとする。強風で壊された窓の隙間風を防ぐためにこのキャンバスが使われていたところを見ると、この家の主人は藝術にはまるで素養も関心もないらしい。換言すれば、<油彩画>なるカテゴリーはこの人物の認知装置のうちにはない。これがあながち突飛な想定ではないのは、彼がもしクロマニヨン人なら明らかに<油彩画>を理解しないであろうという確度の高い想定が裏書を与えている。
 記号は記号機能の所産にすぎない。この世界に「記号」という名の特殊な事物の集合がある、という記号の客観主義=実在論は誤りである。記号論創始者パースは、一生涯、記号の分類という問題に熱中したが、文字通りにいえばこれは間違った問題設定だった(この点については、菅野盾樹『恣意性の神話』(勁草書房)が詳しい。)
 一例をあげることにする。水銀を用いた温度計は、例えば大気の温度を表示する<記号>である。大気の温度と水銀柱の高さの間には因果関係があるから、パースの分類ではこの記号は<インデックス>に属するわけだ。もちろんこの議論が全面的に間違っていると言いたいわけではない。むしろ、この議論から記号のタイプを固定化する結論を引き出すのは誤りだと言いたいのである。この議論へ反例をあげたいとおもう。真夏の炎天下で暑さにあえぐ私が水銀柱の目盛りが40度を超えているのを見て、いまさらながら猛暑にうんざりする思いに襲われたとする。このとき、温度計は<猛暑>を象徴する記号だと言っていけないわけではない。しかし今問題なのは、記号の外部にある対象を指示する働き(=外延指示)ではない。グッドマンの記号機能論における<表出>(expression)がアクチュアルになっている。それゆえ「温度計はインデックスである」という言明は誤りである。
 記号に関してリアルなのは記号機能であって記号ではない。もちろん概念区分の問題として、特定のタイプの記号なるものが存在する可能性は否定できない。いずれにしても、存在論的オーダーからいって、記号機能がプライマリーであり、記号は二次的な意味で存在するにすぎない。グッドマンは彼の記号学の構想において、終始、記号機能を前面に打ち出すことで正しかった。誤解のないように付け加えると、<記号機能>は<記号的実践>のただなかにしかない。換言すれば、記号機能のリアリズムもまた誤りなのである。
 最後の点については、異端の言語思想家ロイ・ハリスの業績を参照すべきだろう。(例えば、R. Harris, Signs, Language and Communication―Integrationl and segregational approaches. Routledge. 1996.)ハリスの事例をひとつ紹介しておく。例えば彼女の指に輝いているのは<婚約指輪>という<記号>である。それはもちろんある日あるところで、婚約者がおこなったプロポーズを彼女が受け入れて、彼氏から贈られた品である。しかしある宝飾店のウインドウに陳列された、貴金属と宝石を素材とした製作物がそのまま<婚約指輪>であるはずもない。この製品が<婚約指輪>として意味をなすのは、モノとしての指輪に根拠があるのではなく、それがプロポーズの儀式に統合されるからだ。宝飾店のウインドウにあるのは<婚約指輪>ではなく、(単に将来的な)コミュニケーション過程(=時間的に展開される出来事の系列)に適切に統合されるなら、<婚約指輪>になるだろう、不特定多数の指輪の一つにすぎない。それゆえ、結婚詐欺における<婚約指輪>は厳密に言うとニセモノであって、その名に値しない!
 話を要約したい。グッドマンの<指示>の概念は記号が別の事物への指向的かかわり(aboutness)をもつという作用の総称ではない。こうした解釈が世に出回っているが、誤りである。グッドマンの<指示>はまさにこの種の記号論的偏見を否定しているのである。すなわち、指示とは「あらゆる種類の記号化、あらゆる場合の表すことを包含する、根元的な語」なのである。

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