世界とヴァージョン

namdoog2006-03-23

 ブルーナー『可能世界の心理』で指摘された重要な問題に、<世界>と<ヴァージョン>との異同ということがある。単純な例をあげれば、地動説に依拠した世界像と天動説のそれとは異なるのはもちろん、互いに相容れないヴァージョンである。ブルーナーが読み取っているように、グッドマンは確かに両立しえないヴァージョンが「別個の世界において真である」という形で調停している。こう述べる以上は、グッドマンは<ヴァージョン>と<世界>とを存在論的に区別していることになる。「世界は、そのヴァージョン自体ではない。というのは、ヴァージョンには、その世界にはない特徴があってもかまわないから」

 ところがブルーナーは、ここに看過し得ない問題を見出す。「グッドマンの解決策は、はっきりしない。つまり彼は、諸世界と諸ヴァージョンとのあいだには、差異があるということと、差異がないということと、両方のことを言っているように思われる。」グッドマンは二枚舌だというのだ。

 グッドマンの言い様に曖昧さがあるのは本当のことだ。しかしそれを彼の形而上学の矛盾と見なすのはどうだろうか。(ブルーナーの哲学贔屓は相当なものだが、残念ながら最後的には、彼は哲学を真面目に考えていない、と言わざるを得ない。)そもそも、ヴァージョンとは<世界そのものに匹敵する>という存在論的資格がそなわる(複合的で統合された)記号系のことである。この意味では、ヴァージョンが世界であるのは当然として、逆に、世界とはヴァージョンである、と言ってもいい。この存在論的審級においては同一性が問題なのだ。

 しかしこの同一性は、実は世界の否定性そのものである。AがBに同じひとつの存在なら、Aは、Aとしては存在の理由を失う。ところで、Bを否定性に追い込む訳にゆかないのは、もちろん記号主義の前提があるからである。この限りでは、A≡Bであるのにもかかわらず、双方に存在論的非対称性があるのを認めなくてはならない。だから問題はこの非対称性が正確に言ってどのようなものか、にあるだろう。

 世界とはヴァージョンの可能的存在性ではない。むしろ潜在性なのである。世界をそれとして(ヴァージョンへの表現から切断して)摘み出すのは不可能である。ヴァージョンが成就し世界が世界した(The world has worlded)ときにようやく世界は可視的になるだろう。しかしながら、世界そのものは絶対的に不可視であり続ける――世界が可視的でありうるために。
 ついでながら、近代の哲学思想は<潜在性>という古代的概念をほとんど顧みなくなった。多様な内容をはらんだ<可能性>の概念を単なる論理学的思考に切り詰めてしまったわけだ。これを現代に復興したのはベルクソンの特筆すべき功績である。科学はたいていの場合<潜在性>なしでもやってゆける。不定形の素材から何かを作り出すのが藝術のもちまえだとすると、藝術は<潜在性>なしには成立しえない。とはいえ、近年の自然科学とりわけ生命科学上の新しい展開のうちには、この<潜在性>を真面目に考えようとする節がうかがえる。生命科学は基本的に線形的計算にはなじまないからである。
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