記号系は再帰によって構造として立ち上がる

namdoog2006-03-26

 ふたたび心理学者ブルーナーがその『可能世界の心理』(書名の訳がピンとこない。この点については3月22日にいささか意見を述べた)のなかで明らかにした、グッドマン記号主義に関する評価とコメントをとりあげよう。ここでの問題は記号系の機能における<再帰性>である。

 ブルーナーは、グッドマン記号主義の含みとして「所与の神話」の脱神話化――認知における絶対的所与などというものはない、逆にいえば、記号系の働きとしての認知への入力は、つねにまたすでに、何らかの記号系であるほかはない――を真っ先に指摘している。

 心理学の領域で理論家は<再帰>(recursion)についてしばしば言及する。ブルーナーは、この概念がグッドマン記号主義の基礎概念と調和する、というより、そのひとつのヴァリエーションであるという。というのも、「「再帰」の過程によって心やコンピュータ・プログラムは、先立つ計算の出力へと回帰して、それをつぎのオペレーションの入力ともなりうる所与として扱うのだから」(邦訳、157頁)。

 ブルーナーのこの指摘は、「所与の神話」の自覚とその脱神話化のうえに築かれた記号主義が、じつは<記号の存在論>つまりは<記号の論理的生成論>を暗黙裡に含意しているという指摘だと読むことができる。心理的過程としての<再帰>の論理的構造が<自己言及性>にある点は見やすい道理だろう。計算の出力を入力として計算=過程そのものに取り込むことができる、という計算の条件とは、計算=過程がそれ自身に関与することだからである。

 世界認識=世界制作の「所与」が、じつはいつでもすでに世界制作の所産でしかない、という原理には上述のものと同型のロジックがある。つまり自己言及のロジックだ。

 記号系の自己言及性ということに限れば、グッドマン以外の論者も知っていたことかもしれない。しかし彼の記号主義はこの記号の存在論から歩を進めて、記号系の発生論にまで立ち入っている。それが彼の<指示>理論であると筆者は解釈する。これ以上の話はすでに活字にしているので、深入りすることは遠慮しよう。(菅野盾樹『恣意性の神話』勁草書房や「指さしの記号機能はどのように発生するか」『現代思想』、2004年7月号、青土社、を参照。)

 簡単にいうと、<外延指示>denotation/<例示>exemplificationの記号機能上の対比において、前者は後者の構造要因に過ぎないということ。逆にいうと、(非唯我論的)記号機能の論理的発生は、例示に始まるということである。(ある意味で、これ以前の「記号機能」についても語りうる。「カテゴリー化」である。この「記号機能」の二義性については再考してみたい。)モノに記号性がいわば受胎するとき、我々はまさにその現場に記号系の自己言及性を目撃することになる。こうしてみると、ブルーナーのコメントはまことに正鵠を獲たものだと言えよう。
  
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