記号機能の誕生

namdoog2006-03-28

 グッドマンの世界制作論のキーコンセプトは<指示>(reference)にある。ブルーナーは<再帰>(recursion)という数学的構造をそこに見出すことによって、<指示>の論理的構造に(彼自身、思いがけない)照明をあてることになった。筆者はブルーナーとは独立につとに<指示の発生論>を構想してきた。(この作業はいまも継続中である。)ここにその骨子を記しておきたい。

 <世界制作>(worldmaking)についてグッドマンが考え残した多くの問題の中で筆者が最も重大だとみなすのは、人間知性(human understanding)における<発達>という縦断的次元である。彼が「世界制作」に言及するとき、ここで思い浮かべられているのは、制作され完成したかぎりでの世界にすぎない。ところがピアジェのような心理学者が我々に教えてくれているように、子供の世界は大人のそれとは様相を異にしているし、子供と一口にいっても、2歳児と6歳児とはそれぞれが生きる世界は内容として相違しているのだ。そこで、世界制作における<世界>を基本的に①制作されつつある世界(the world in the making)、②取りあえず制作された世界(the world provisionally made)の二つの様相下の世界として分離して概念化する必要がある。こうしておけば、人間知性のそれぞれの段階における<世界>を①と②のふたつを巻き添えにして稼動するダイナミズムによって描写することが可能になるだろう。ここに最初の意味での、記号構造の二重性がある。 

 ①においては、あらゆる記号表現は基本的・原初的にカテゴリー把握(categorization)である。「カテゴリー表現」とそれを呼ぼう。世界の素材に分割をもちこみ、モノやコトを創出する機能である。実質的には、それは存在者の分類と体系化にほかならない。ここに適合する意味論としては、私見によれば(拡張された)概念役割意味論がふさわしいと思える。

 心理学者がカテゴリー化(筆者はむしろ<カテゴリー把握>という用語を好んできたが)と呼ぶ操作は、グッドマンの用語では<レベル>の使用にほかならない。言い換えるなら、上で「カテゴリー表現」と呼んだ記号表象である。誤解は禁物であるが、「ラベル」や「カテゴリー表現」を言語的なものに還元してはいけない。そこには非言語的・前言語的な一切の表象が含まれる(身振り、アイコニックな表現、音声、その他)。当然のことながら、カテゴリー把握に対しては、グッドマンの例示や表出の分析がそのまま適用できる。図式化して表せば、カテゴリー把握とは、

モノ⇔ラベル

という対応づけのことである。カテゴリー把握を心理学的意味での発達の軸に応じて観察することが心理学者たちの仕事であるが、ここでは立ち入らない。

 まだ我々は本来的な記号の生成に立ち会ってはいない。我々は、記号の存在構造の要因として、ふたたび記号における構造的二重性を明かにしなくてはならない。まず、①のステージにおいて人間知性の働きは、探索行動と発見=属性帰属(attribution)という身振りになる。何かを何かとして(as something)知覚することが知覚の内的制約であるが、これが可能になるのは、目や手が探索的にまなざしまさぐる身振りだからでしかない。発話も言うまでもなく身振りであるが、この言語的探索行動=属性帰属は、比喩的にいえばオースティンのいうlocutionに対応する。また発話には息遣いや声調などの(荒っぽい言い方で)パラ言語的要素が必ず随伴する。こうして、運動=準パラ言語=準言語という三重の身振りとしてのカテゴリー把握が遂行される。この全体構造をΣと表記しよう。(構造要因がまだ「準」の地位しかもたないのは、このステージではまだ十全な意味での「記号」が成立していないからである。)

 言語がまだ十分に口をついて出ない段階の幼児を観察するとわかるが、彼らは実にしばしば、ものを指さしながら音声を発する。ここに本来的な意味での<言語の誕生>を認めなくてはならない。論理的構造としては、音声が随伴しない指さしそのものが<記号>の生成そのものである。すなわち、指さされたモノがその場から採りあげられ間主観的にひけらかされるに至る。これが<示し>(showing)の記号機能であることは指摘するまでもないだろう。絞り込んで言うなら、この機能は、グッドマンの指示理論にいう<例示>(exemplification)である。

 例示においては、モノへのラベルづけが双方向でなされた点に注目しなくてはならない。一方で、ラベルがモノに貼付されモノが何かとして類別されることになる(カテゴリー把握)。他方で、この個別的なモノがΣ=カテゴリー把握を代表することになる。換言すれば、このモノがΣの名に転化するのである。この名を【Σ】と表記しよう。【Σ】の記号としての存在様態はふつう「見本」を呼ばれるが、つねにそうだとはかぎらない。むしろ重要なのは、身振りとしての【Σ】が焦点化と展示の行動=発語行為そのものだという点にある。全体構造としての【Σ】において音声行動がドミナントとなったとき、はじめて我々はそれを「言語」と呼ぶことになるだろう。我々はこの種の言語を、elocutionと呼ぼうとおもう。(言語はすでにelocutionなのである。しかしlocutionはまだ「言語」ではない。)

 誤解をおそれずに言えば、Σが認知的だとすると、【Σ】は言語的(表現的)だといいうる。注意すべきは、この構造が全体として<示し>の記号機能を持つという点である。つまり、記号は認知と表現の二重性をはらんでいる。この点を誤って外在化したのが、20世紀の客観主義者やリアリストたちだった――記号とその名である別の記号というふうに。言語に安直に階層性を持ち込み「メタ言語」を発明したことがじつは言語の本態を見失わせる結果につながったと評さざるを得ない。こうして、記号は<示し>(ないし<例示>)の機能のうちで誕生したことになる。

 それでは、グッドマンのいう<外延指示>(denotation)あるいは本来の<語り>(saying; locution)はどのようにして出現したのだろうか。

 世界制作の二つの様相に立ち返ろう。②の段階で、①のステージで一定のカテゴリー表現を身につけた幼児は、第二回目の「カテゴリー表現」の使用にさいして、ふたつの状況に直面する。1つは、自発的な「カテゴリー表現」の使用。何かを欲しい、何かが怖い、といって幼児はその名を口にしつつ指差すことをする。つまり【Σ】の反復である。2つは、他発的な使用。養育者に「赤いのはどれ」と尋ねられて、「赤い」と口にしつつ指差すのだ。後者の発話行為になぜ括弧がいるのか。(これを【Σ】と混同してはならない。)それはつまり記号使用のステージが進んだことによって、音声としての(もちろん記号の半面としての音声)「カテゴリー表現」がin reとしては同じであるが、資格においてしたがって存在性において別なものとなったからである。それはもやは「カテゴリー表現」ではなく、指示機能の担い手となったのである。ここに<外延指示>という機能が生成することになる。つまり、Σの使用法の違いが、記号の外部にある対象への指示という機能(外延指示denotation)を生み出すのである。道具の用い方が違う効果を伴うことをおもえば、ここに格別の不思議さはない。

 以上の素描において注意すべきは、「示しの優位」である。。モノ⇔ラベル、という構造が、モノ←ラベル、に変形した。あるいは抽象化されたのである。この変形要因は、世界制作の完了にともなう世界の外在化である。どこから外在化は招来するのか。簡単に言うと<世界への住み込み>という実存の存在変容に外在化の要因を求めなくてはならない。稿をあらためて、以上の素描の精緻化を図りたいとおもう。

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