認知とコミュニケーションは相互作用する

namdoog2006-04-02

 言語について多くの論者が①認知ないし計算、②コミュニケーション、の二つの基本的働きを区別している。(スペルベルたちが言語理解の理論についてまとめたテクストのサブタイトルは、communication and cognitionとあるし、ハーマンはセラーズにならって計算とコミュニケーションを言語の二つの基本相と捉えている。しかし哲学史を少し注意深く調べてみれば、この二分法がながい伝統をなしているのがわかる。)

 例えば教師が頭のなかで直角三角形の概念を組み立てるとき、ここに一つの認知が成立したことになる。この概念は言語的分節を具えている。試しに彼に聞いてみればいい、「直角三角形の長辺に対応する角は何度ですか」と。直ちに「もちろん90度ですよ」という答えが返ってくるだろう。ところで教師が生徒たちに<直角三角形>について教えるとき、言語はコミュニケーションの相で働いている。

 この二分法がかなりの程度妥当なことは認めざるをえない。しかしながら、これを絶対的な二項対立として受け入れることはできない。いわゆる語用論や有意性理論(relevance theoty)が明らかにしたのは、認知がコミュニケーションと相互に響き合う事態ではなかったか。例えば生きた比喩の意味を辞書で調べることができないのは、その一つの証拠であろう。そのつどのコミュニケーションの現場で比喩的言語表現に意味が宿るのであり、それまで曰く言いがたかった事柄を比喩が見事に言い当てる認知の働きは、コミュニケーションと別に成り立つとは見なしがたい。

 以上のような問題意識を抱きつつ、グッドマンの世界制作論を検討してみよう。彼の<世界>概念は、<世界制作>とセットで構想されている。世界は既存のヴァージョンを素材にして制作される別のヴァージョンなのだ。絶対的に固定した唯一の世界を断乎として認めない点がグッドマンの議論の特徴である。そのかぎりで<世界>は可塑的であり流れのなかである種の安定性を獲得した取り合えずの作品でしかない。

 とは言いながら、グッドマン理論には(客体に即するなら)世界生成(world genesis)と(主体に即するなら)認知の発達(cognitive development)という概念的区別が明瞭ではない。理論をいっそう完備したものにするため、ここに<制作されつつある世界>(the world in the making)と<取りあえず制作された世界>(the world provisionally made)の区別を導入しよう。

 本来的な意味での<記号機能>が<例示>として呱々の声をあげるという我々の見地と世界相を二分する見地とを組み合わせると、世界制作のフェーズは自ずと4つに分かれることになる。 
 例示は<対象へのラベルの貼りつけ+この対象のラベルへの指示>という構造をなす。前の構造要因を<述定>(predication)、後の要因を<記号化>(signification)と呼ぼう。述定/記号化がおおよそ認知(計算)/コミュニケーションに対応することは見やすいところだろう。述定も記号過程であることに注意。ただしそこに表裏一体をなす本来的な(authentic)<記号>が介在するとは言えないだろう。そこで、(モノ⇔ラベル)という記号過程(グッドマンの用語では例化instantiation)におけるラベル(Σ)を、しばらく<準記号>(quasi-sign)と呼ぼう。
  それでは、準記号と本来の記号との違いはどこにあるのだろう。あるいは、記号がタイプ(型)という存在性格をもつのに対して、準記号はトークン(型代)とみなしうるかもしれない。何かを赤いものとして知覚し(述定)、その赤いものに手を伸ばしてつまみあげ示すとき(=例示)、そのものは個別的性格を喪失して<赤いもの>の代表者つまり一般者に転身している。<記号>はそれだけで存立できる実在性を持たなくてはならない。プラトンは個別者をイデアの影にすぎないとした。後世になって、ある哲学者はイデア論を逆さにされた唯物論だと評したが当たっている。記号は潜在的質料のなかからemergeするからである。(残された問題は、トークンとタイプの存在論である。我々は記号論唯名論によってここに解決の道筋をつけることができると考えている。このような形に問題を形成することで、少なくとも指示理論にトラブルが混入するのを封じることができるだろう。)

 もちろん知覚だけが生起するときも(手の運動が随伴しない場合でも)やはり<記号>が成立をみる。たとえば赤いものが幼児の目にはいる。この個別的経験が何らかの形で拡張されて―例えばアブダクション―ただちに知覚が生起する。しかしこの種の知覚はまだ準記号でしかない。本来の記号としての知覚はどのようにして成立するのだろうか。母親が「赤いでしょう、これが赤よ」という(この言語行為は<示し>を遂行している)。そこで幼児は、それが青でもなく白でもなく…赤だと再-知覚しつつ(<示し>を追体験しつつ)、はじめて<これが赤だ>と了解する。視られたものは<赤なるもの>という一般者であり、この知覚はタイプ(型)としての感覚質で飽和している。
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