人間の記号実践におけるの問題

namdoog2006-04-03

 ブルーナーの『可能世界の心理』におけるグッドマン論に触発されてここしばらく記号主義の哲学にとっての基礎問題を考えてきた。3月21日に記したように、世界とヴァージョンとは事実上は同一であるが、あえて二者を区別する点に<世界制作>のダイナミズムが捉えられているとみなすことができる。世界を制作するのは人間の記号的実践にほかならない。試作された複数の世界がたがいに軋り合いながらも、その中から生の要求にかなった世界が選択される。記号実践の主体の観点からいえば、世界選択と安定化は<習慣>の問題として考察できる。これが、21日に記した、④人間の記号実践における<習慣>の問題である。

 習慣については、かつて総論として次のように論じたことがある。グッドマンの記号主義が<習慣>をキーコンセプトとしている点が読み取れるだろう。④に関して筆者が考えるところはほぼこの短文に尽くされている。すこし長いが引用しよう。

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習慣の最初の定義とその例
 「習慣」という語は多義的なので、はじめに、ここで採り上げ考察する「習慣」の意味をまず明らかにしておこう。(ただしこの定義はあくまでも第一次近似値にすぎない。考察を進める中でより適切な定義に仕上げてゆきたい。)ある状況で初めは意識的な努力なしにはできなかった行為でも、それをしばしば反復して行うと、やがて努力しないでも容易にそれを行えるようになる。心理学者の言葉遣いでいえば、ここでいう「習慣」とは、学習によって後天的に獲得され、比較的固定化するにいたった反応の様式である。 
 たとえば、自転車に乗るという行動を考えてみよう。生まれてはじめて自転車に乗る人は、誰かの補助なしには二つのペダルに両足を乗せることすらできない。やっとのことでペダルを一人で漕げるようになっても、最初のうちは進んだかと思うとすぐに片足を地面につけて停まってしまう。そして自転車で進める距離がかなり長くなった段階でも、障害物を避けるためにハンドルを操作するのがうまくゆかず転んでしまう……。こんな失敗を重ねながらやがて人は自転車に乗ることをおぼえる。このように、自転車乗りという行動(自転車のバランスを取りながらハンドルを操りペダルを漕いで進むことができる、という過程)は、はじめの頃は、部分部分で見るとすべて意識的努力がともなう行動のつぎはぎにすぎない。しかし何度も自転車に乗る練習を重ねているうちに、いつしか行動様式の臨界点がおとずれる。それは、ぎこちない意識的行動からなめらかで自動化された行動へと越え出てゆく臨界点である。ここを越えれば「その人は自転車乗りの習慣を身につけた」といえるのであり、以後この習慣はほとんど終生にわたりその人の行動様式の一つとなるだろう。

習慣の主体は身体である
 習慣の形成のために、意識は両義的な役割を演じている。自転車に乗る練習で、自分の身体の各々の部位の動きをいちいち意識化していたのでは、かえってうまくゆかないだろう。習慣と意識化された身体操作とは、両立しがたい別々の人間の存在様態である。現象学メルロ=ポンティMerleau-Ponty)が強調したように、習慣の形成を意識主義ないし主知主義によって説明することはできない。しかし他方で、習慣を反射運動のような機械的な反応と見なすこともできない。自転車に乗ることができるためには、そもそも人間本性に自転車に乗る能力が潜在的にそなわっていなければならない。この能力はある意味で「知的な」能力である。というのも、自転車という乗り物の運動的「意味」を身体が「理解」したとき、自転車に乗る能力が実現された、といえるからだ。「身体が一つの新しい意味の核を同化したとき、身体が理解した、習慣が獲得された、といわれるのだ」とメルロ=ポンティは述べている。彼のいう「理解する」(comprendre)に相当する日本語としては「体得する」ないし「身につける」のほうがよいかもしれない。 
 自転車でもピアノでも、それらの道具を巧みに使いこなす習慣を形成するために、少なくともはじめのうち、意識はあたかもインストラクターのような役割を演じる。「畳の上の水練」という成句がある。これは、方法や理屈は分かっていても実地に練習をしないならば習慣は形成されない、という主旨の表現であるが、だからといって方法や理屈が必要ないとはいえないだろう。方法や理屈の知識があれば、つまり練習を適切に意識化することによって、無意味な練習や間違った練習を避けることでき、結果として習慣の形成は促進されるだろう。この事実は、習慣の形成が、機械論者のいうように要素的運動や反応を外面的に連合したものではないことを示している。こうして、習慣の主体は古典的な意識でも理性でもなく、私の身体(corps propre)なのである。ただしここにいう「身体」とは解剖学的身体ではなくて、知覚と運動のシステムとしての生きた身体のことである。

行動のルールないし理解可能性の構造
 習慣と意識との関連について別の面から観察してみよう。私たちの日常の振る舞いは大部分がはじめに定義した「習慣」から成り立っている。たとえば、私が朝になって目を覚まし、寝具から這い出して着替えをする。洗面所へいって洗顔する。テーブルの上に食器をならべ朝食の用意にかかる……。ここに認められるのは、そのすべてが私に生来そなわっていた能力が、学習や練習によって現実化した「習慣」の展開である。このかぎりで、習慣とはパース(S.Peirce)のいうように「行動のルール」にほかならない。ルールに従うということは、私の行動が理解可能性の構造をそなえることを意味する(反対に、ルールのないデタラメな振る舞いは理解できない)。かたわらで私の振る舞いを見る家族の者が私が何をしているかを理解することができるのも、習慣に具わる一般的構造のおかげである。換言すれば、私のすべての振る舞いは「意味」という一般性で満たされている。
 ところが、いつもの朝の私の習慣に異変が起こったとする。寝具をはねのけようとしても無駄であることに突如として私は気づく。手も足も麻痺したように意のままにならない。この原因が何であるか(たとえば脳の疾患かどうか)はいまは問題ではない。重要なのは、習慣が阻害されたことによっていまそれがむしろ意識化されたという点である。「もし目覚めたら、寝具から外へ出ること」という習慣が、いまや私には「なすべきだが不可能な行動」として意識の表面へ浮上することになる。他方で、ルールの一つが欠落したために、家人には私の振る舞いの「意味」が理解できないものとなる。家人の心には、どうしたのだろう、という疑念と驚きの念が生じる。これが意味するのは、私にとっての習慣の意識化が、やはり、私の習慣を見慣れている第三者にとっても同じように生起するということである(理解可能性という一般的構造)。習慣はこの点で記号ないし表象と同じカテゴリー(第三次性)に属している。
 パースは、私たちの習慣が状況と齟齬したり破綻したりしたとき、私たちは〈疑念〉(doubt)と彼がいう存在様態に陥るのだとした。それは心が平静を失いいらいらした苦患の状態である。こうした状態を克服するために私たちは新しい習慣の形成を目指して努力せざるを得ない。〈疑念〉から〈信念〉への知的プロセスを彼は〈探求〉(inquiry)と呼んだ。彼のいう〈疑念〉やとくに〈信念〉(belief)は後世の言語哲学者のいうそれらとは趣を異にしている。それらは単に「知識」にかかわる要素として心理学的ないし認識論的にのみ考えられていたのではない。それは存在論的なカテゴリーでもあった。〈信念〉は〈疑念〉を晴らし新たな習慣をもたらしてくれる「心の習慣」であって、その大方が無意識で平静な心を生きる人間の存在様態なのである。
 私たちは、習慣の定義を狭い意味での「運動的習慣」から始めたが、プラグマティズム創始者パースがいう「習慣」に知識、学問、技術、藝術などあらゆる人間的実践を含めることが許されるだろう。言い換えるなら、一般性と法則性と理解可能性がともなうあらゆる人間の営みは何はともあれ「習慣」なのである。

現実と習慣
 習慣とは理性とは異なる経験の合理性の根拠である。私たちが秩序ある世界で無難に生きることを可能にするものは、理性や理性に基づく論証や証明であるよりむしろ習慣である。この点を雄弁に物語るのは、帰納にかかわる「グッドマンのパラドックス」だろう。私たちはこの世界を帰納(induction)という推理の方法によって秩序づけている。ところが、グッドマン(N.Goodman)によれば帰納を論理的に正当化することはできない。たとえば、エメラルドのうち、今日までのところミドリ色をしているもの、あるいは明日以降アオ色であることが判明するものを、一口で「ミドオ色」(これは「ミドリ色」と「アオ色」を合成した述語である)と呼ぶことにしよう。今日までに知り得たすべての証拠が「あらゆるエメラルドはミドリ色である」という全称命題を裏づけるなら、それらは同時に「あらゆるエメラルドはミドオ色である」という命題の裏づけにもなる。したがって、あるエメラルドはアオ色である!このように、帰納は正当化されない。にもかかわらず、人は事実上正しい帰納と間違った帰納とを区別している。論理的には平等な二つの述語「ミドリ色」と「ミドオ色」を人は実際には差別している。この「差別」をもたらすのは、どちらの述語が習慣に合致するかという事実にすぎない。現実世界を記述する述語や現実世界に妥当する仮設や法則などをそうでない述語・仮設・法則から分け隔てるものを、グッドマンは「習慣の守り」(entrenchment of habit)と呼ぶ。
 習慣が経験の合理性を保証してくれるとはいえ、未来永劫にそうであるとは限らない。習慣によって守られていない仮設や法則がいつか実現するかもしれない、という可能性はつねに残っている。習慣はときとして革新されるからだ。ここに習慣の両義的な性格を認めることができる。言うまでもなく、習慣は固定化する傾向性のことである(「絶えず変化する習慣」は形容矛盾にすぎない)。しかしこの習慣の固定性(stability)は相当程度に柔軟であり、習慣はそもそも可塑性をそなえている。文化によって世界観が異なるのも、藝術家によるリアリティの表現が個性的であるのも、科学的パラダイムの変革が起こるのも、いずれも習慣のこの可塑性を示しているといいうるだろう。

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 以上に付け加えるとすると、習慣の世界を形成する力(=習慣の守り)を記号創発とのかかわりでどのように解するかという問題が残っている。端的にいうなら、習慣は記号機能(つまりは指示機能)の主体的基礎である。記号は記号システムのうちで一定の動きをするからこそ記号でありうる。例えば、「人間」という単語は品詞としての特徴や意味上のきまった動き(例えば、「悪い人間」とは言えるが、字義的な意味では「すっぱい人間」とは言えない)などがある。語は文法的な(=文法に適った)うごきをする、といってもいい。一般的にいうなら、システムのなかにルールやパターンがあるからこそ、システムは全体として機能するわけだ。習慣はルール形成力を持っている。あるいは習慣とはパターンの源泉である。この洞察を形式的な観点から精緻化する必要があるかもしれない。