すべての理論は仮設である

namdoog2006-04-04

竹内薫『99.9%は仮説』(光文社新書)を夕方本屋で手に入れ移動の電車の中であらましよんでしまった。語り口がとっつきやすいせいだろうか、2006年2月に発売されてわずか一月のあいだにもう5刷を出している。要するに、科学理論は「仮説」にすぎない、という主張を例証を交えて展開している内容の本だ。そのココロは、仮説に縛られ固定観念、常識、先入見、前例などに囚われることをやめ、これらはすべて「仮説」に過ぎないと悟ることが必要だ―そうすれば、柔軟な考え方ができ「黒い仮説」に翻弄されることもない、というわけだ。
 グッドマンの世界制作論にとって、科学理論が「仮説」であるという思想はすこぶる相性がいい。しかし問題は、理論の仮説的身分をどのように正確に理解するかという点に収斂する。
 それにしても、竹内による「仮説」の用語法はどうもすっきりしない。本のはじめの部分に<飛行機はなぜ飛ぶのか>という問題に科学的に納得できる説明はない、という例がでてくる。ふつうはベルヌーイの定理を援用して、翼の上部と下部を流れる空気の早さが異なること、つまり上部の空気の速度のほうが早いので、その部分の空気圧が減少し上向きの揚力が生じ結果として翼が浮上するのだ、とこう説明される。同じ位置から上下に分かれて翼の形にそって流れた空気が翼の後ろで同時に合流することは当然視されている(=前提)。じゃどうしてこうした空気の流れに速さの差が生まれるのか?それは翼の上を流れる空気は翼の形状のために下を流れる空気より長い距離をゆくからである。―そういえば筆者も昔々こんな説明を聞かされた記憶がある。
 竹内によるとこの説は単なる「仮説」だという。そのココロは、実際にデータをとってみると、確かに上部の空気はより速い速度で流れている。だが翼の下を流れる空気は同時に上の空気流と一緒になるわけではない。だとすると、このベルヌーイ定理型の説明は証拠によって確証されていないかぎり単なる「仮説」の身分でしかない。データによって「検証」された仮説だけが晴れて「定説」の身分に格上げとなるのだ…(p.33.)
 「仮説」のこうした理解にはどうも釈然としない思いが残る。ベルヌーイ型仮説は(竹内もほのめかしているように)モデルを使用した風洞実験でその正否を確かめることができる。この場合間違ってはいけないのは、もし仮説に反するデータが得られたら(データはほんものだとする)、この仮説はこれを限りに意味を失ったのだ。論理的な言い方をするなら、仮説は全称命題(の連言)であり、ただ一つの反例によって決定的に覆される。(わかりやすい例。「全てのカラスは黒い」という断定が持ち出されたとして、白いカラス(突然変異のせいかもしれない)が見つかれば、この断定的な仮説は無効になる。)本書でも、ポパーの名高い<反証可能性>(falsifiability)について具体的に言及があるのに(p.135)、どうも議論が深められてはいないようなのだ。
 仮説/定説をワンセットで持ち出すやり方がトータルにダメだというつもりはない。しかしこの種の「仮説」観はいかにも古めかしい。だいたいhypothesisを「仮説」と訳すのがミスリーディングではないのか。語源を調べると、hypothesisはギリシア語のhupothesisに遡り、hupo =under, thesis=putting,つまり<下に置かれたもの><基礎>という意味である。イメージとしては、理論を構築物とみなしており(これは有力な隠喩である)、<さしあたり拵え上げたもの、設置したもの>という感じの観念である。筆者はそういう理解に基づいて従来からこの語を終始<仮設>と訳してきた(仮設住宅、仮設テントなどを考えよ)。<とりあえず(=恒久的でも絶対的でもない) 組み立てた〔構築物たる〕理論>というココロである。
 竹内の本では、この<仮設>がC.S. パースの記号論形而上学において最も重要な概念のひとつであることにはまったく触れることがない。もしパースの学説に顧慮を払っていれば、議論の展開もまた別の様相を見せたかもしれない。
 竹内はこの意味での「仮説」(「仮設」ではない)とは別に、あらゆる理論がつまりは「仮説」に過ぎない、と断言する。だから「定説」などという格別な身分の理論はないのであり、もしこれが定説だと人が言うなら、それはつねに「仮説」だとわかる、というわけである。
 このように、竹内の用語法は少なくとも二義的である。ただこれはまあご愛嬌であり、全体の論旨に致命傷を及ぼすものではない。
 さて、筆者もまた<理論はすべて仮設〔仮説ではない〕である>といいたい。そしてこの命題は、グッドマン世界制作論の含意でもあるといいたい。それはどういうことか。