世界の制作にはアブダクションが駆使される

namdoog2006-04-05

 従来、知識を拡張する方法として類推(analogy)、帰納(induction)、アブダクション(abduction)などが提唱されてきた。推論の方式には他に「演繹」(deduction)がある。しかしこれはすでに前提に含まれたものを引き出すにすぎず、知識の拡張には役立たない。
 注目すべきは、これらの方法のいずれもが想像力によって主導される認識プロセスだという点である。それというのも、これらにはすべて「投射」(projection)の操作が含まれるからだ。ここにいう「投射」とは、アルゴリズムとして表現するのが不可能な「算法」のことである。もちろんこう言うからといって、投射なる操作がデタラメになされどんな規則にも従わない、ということではない。
 「老年は人生の夕べだ」という類推を支えるのは隠喩的投射だし、帰納とは、一部の事例に関して真であることを全部の事例へと投射する手法にほかならない(「この烏は黒い、あの烏も黒い、ゆえにすべての烏は黒い」)。
 さてここで主題として採りあげたいのは、C.S.パースが提唱した<アブダクション>のことである。これはさまざまな別名をもつ推論の方式であるが、要するに、観察されたデータに対し説明をほどこす仮設を形成する操作のことである。そのためパースはアブダクションをしばしば単に<仮設形成>(hypothesis)とも呼んでいる。(余談をひとつ。アブダクションは「拉致」も意味する。今問題の北朝鮮による「拉致事件」はまさにアブダクション!なぜこれが「仮設」と関係するのか、察しのいい方にはお分かりだろう。観察データから説明理論へと認識者を無理やりにでもひっさらって連れて行くからであろう。)
 具体的にいえば、ある事実を後件として受けとめ、まったく新しく前件を創りだすといった推論をおこなうことである。
 例えば、細いガラス管に密封されたアルコール液が朝に観察したら10センチの高さであったとする。観察した人物は、「アルコール液の高さが時刻tに10センチあった」という知覚判断を得たことになる。しかしこの判断に格別に興味深い意義があるとは思えない。さて真昼にまた「アルコール液の高さが正午に17センチあった」という真なる知覚判断が得られたとする。これもまた瑣末な真理にすぎない。
 しかし瑣末な真理では飽き足りず、そうした真理の「説明」を欲する人もいる。なぜ時間経過とともにアルコール液の高さが変化したのか、と彼は問うかもしれない。じつはアルコール液の高さは気温の指標にほかならないという仮設、そしてこの仮設だけが瑣末な真理を説明できるという知識こそが、瑣末さを免れているだろう。この知識への飛躍のプロセスが、パースのいう<仮設構成>ないし<アブダクション>に相当する。
 もちろん、これが排他的で唯一の仮設であるかどうかはわからない。もしかすると、もっとよい仮設があるかもしれない。しかしその時代の知識水準なり学問の達成を背景として、事実上、<これが最良の仮設だ>という判断がなされるだろう。(その仮設が事実上ベストだということがなぜ言えるのか、どのようにして決定できるのか―この点を詳しく吟味する認識論的仕事が残っている。簡単にいえば、問題はグッドマンのいう<習慣の守り>(entrenchment) の問題である)。
 アブダクションのなかみを図式化すると、次のようになる。
Qである。しかしP⊃Q → 従ってP
論理学者ならば、これはひどい誤謬(fallacy)だ、というに違いない。(詳しくは「後件肯定の誤謬」(the fallacy of affirming the consequense)と言うらしい。)たしかに論理的にはアブダクションにはなんら必然性がない。にもかかわらず、それが十分に「正しい」ことがある。
 竹内薫『99.9%は仮説』は、ファイヤアーベントの影響があってか(p.95 et passim)<何でもあり>(anything goes)式の相対主義を提唱している。だがこれでは認識哲学としてもやってはいけないし(なぜかは考えればすぐにわかるだろう)、我々のあるがままの認識にもそぐわない。我々は生の要求に促されて、競合する複数の認識システムのなかでより「正しい」ものを求めざるを得ないし、事実そうしているのだ。
 さて前述のように、アブダクションが仮設を創出するとき、それを主導するのは(身体的)想像力に他ならない。