無意識から記号へ

namdoog2006-04-16

 パースの<習慣>という考え方は人間――個人と集団とを含めて――の事柄にかかわると同時に自然環境の問題でもあった。すなわち、習慣とは一般に<出来事>や<プロセス>と呼びうる存在者にそなわる論理性の表現であると同時に論理性生成の原理でもある。
 さて、花子君(5歳の幼児)が初めて自転車に乗る場面を想像してみよう。年長者で自転車乗りに習熟した者(大抵は親だろう)が、自転車の乗り方について花子に教えることになる。このインストラクションの要点は、少なくとも①ハンドルの握り方、②サドルの跨り方、③ペダルのこぎ方の三点にわたるだろう。
 たとえ花子がこれらの運動(ならびにこれらに運動学的に付随する運動)に個別に習熟したとしても、それで自転車が乗りこなせるわけではない。個別的運動を相互に調整しながら<自転車乗り>としてカテゴリー化しうる(全体的で単一な)運動が――身体の習慣として――生成するまで、花子は何度も失敗を重ねなくてはならない。(こう言うからといって、習慣性にとって<反復>は必要条件ではない。だがこの問題にはここでは立ち入れない。)この場合、花子の能動性(例えば<意志>volition)が<自転車乗り>を実現したのではないし、まして花子に受動性(つまり物質的な惰性)しか許されていないなら、自転車乗りなど諦めたほうがいいだろう(きわめて限定された環境条件下ならいざ知らず、普通の野外環境下で自転車に乗るロボットを製作するのはほとんど不可能に近い)。問題はむしろ習慣の<自発性>(spontaneity)なのだ。
 習慣は自発性として<潜在性を現実化へと押し出すもの>(cf. spontaneus だと言ってもいいだろう。逆に言えば、習慣は自己意識の形態ではない。
 記号主義哲学にとって、<無意識としての習慣>というパースペクティブから遠大な展望が開かれる。その眺望を精しく記述することは課題にせざるを得ないが、当面は<言語と習慣>の問題に簡単にせよ言及しなくてはならない。そうすることで我々は改めて、パース+グッドマンの記号主義哲学の根幹に触れることになろう。
 言語が身体的習慣であることを誰が疑うだろうか。「おはよう」とか「いい天気!」と発話がされるとき、聞き手が認めるのは、規則支配的な音響的出来事(rule-governed acoustic events)である。(「はようお」や「!い気天い」は言語としては了解できない!文法に適った音声ではないからだ。)しかし言語習慣は基本的に無意識である。(もちろん、意識的に言語を調べることはできるが。特に他者や自分の言語が意識化されるのが、言語のしくじりを切っ掛けとしていることに注意。<意識>は習慣の破綻なのだ。)
 ロシア・フォルマリズムを標榜したシクロフスキー(Victor Shklovski, 1893-1984)は言語の習慣化つまり無意識化を主題的に論じた。ここから、<意識されない構造>という思想が成立し、彼の思想は後の構造主義へと開花したといわれている。あわせて、フロイトユング、後年のラカンにおける無意識への言語論的アプローチを考え合わせなくてはならない。