複数主義のポイントを逸しないようにしよう

namdoog2006-04-23

 複数主義(pluralism)はグッドマンが展開した世界制作論の、オリジナルであるがまことに問題的な主張である。その問題性について見通しをよくしておこう。
 まず複数主義とはどんな主張なのかをおさえておこう。グッドマンの記号主義ではヴァージョンの制作を通じて世界が制作されるとされているのだが、制作できるヴァージョンはつねに複数(plural)であるという。つまり、世界が原理的に複数あるというのが複数主義(pluralism)の要諦なのである。
 例えば天文学的世界制作に関しては、よく知られているように、天動説と地動説がある。すなわち天文学的世界の個数は2なのである。古代において天動説を集大成したのがプトレマイオスであり、近代にいたりこれがガリレオによって誤りとされ地動説にとって変わられたということは多分小学生でも知っているだろう。
 ただし科学史の細部に注意するなら、話はもう少し複雑になる。ここでの問題は、ティコ・ブラーエの「修正天動説」だ。プトレマイオスの天動説では、惑星の逆行(地球の周囲をめぐる公転の際に惑星が公転の方向に逆行する動きをすること)という一見して天動説に反する現象について、地球の周りの円運動に「周天円」という小さな円運動を組み合わせ、この現象を説明していた。ところが天体の動きを精密に測定したティコ・ブラーエは、プトレマイオスの描像がデータと両立しないことを明らかにした。彼は惑星の公転の中心に太陽を位置付けつつ、太陽はやはり地球の周りを巡っているとしたのである。彼は地球が公転していれば得られるはずの「恒星の年周視差」が観測上見出されないことを根拠に地動説を退けたという。この「修正天動説」が誤りであるというデータは現代的見地からしてなにもない。従って、地動説に対立する資格をもつ天動説は、プトレマイオスのそれではなくティコ・ブラーエの天動説だといわなくてはならない。
 では天文学的世界は2つきりだろうか。そうではない。地動説と天動説との違いは、記号主義(あるいはもっと広く知識論)から見れば、自然現象を記号的複合(理論、ダイヤグラム、その他)で表現するときに我々が採用する「記述方法」の違いに他ならない。電車の窓から風景を眺めていて、①「静止している自分のほうに、電柱が次々に飛んでくる」と記述するのと、②「電柱は静止していて、自分が高速度で動いている」と記述するのは、どちらもそれぞれの意味で正しい。だとすれば、「記述方法」としての第三の道アプリオリに排除する理由は何もない。(もちろん第三の記述方法が得られたとして、そのときどんな風景が目撃されるかを実感するのは難しいけれど。)なぜなら、同等に正しい「二つの」方法がある、ということは、唯一で絶対的な方法が存在しないという意味である。換言すれば、記述方法は無際限にありうるのだ。こうして「記述方法」はいつでもn個である。つまり、自然現象の「記述方法」は理論的には無限個ある!
 そこで改めてプトレマイオスの天動説に目を向けよう。この種の世界制作法がティコ・ブラーエの天動説とは相容れないのは確かであり、その限りで「正しくない」理論として退けらるのはやむをえない。とはいえ、もしもティコ・ブラーエの観測データと両立するようにこの理論に修正を加えたとしたらどうだろう。それが別種の「天動説」として生き延びる可能性が残っているといわざるを得ない。
 我々はヴァージョンを制作しながら、同時に世界を制作する。だとすると、理論的に言えば、世界は複数どころか無限にありうることになる。とはいえ実際には、世界についての「記述方法」の数が恣意的に増えることはない。科学史や学説史を振り返ると、それが有限個――それもせいぜい数個――の範囲に収まってきたのがわかる。
 グッドマンの複数主義は、問題を単に複数の「記述方法」のレベルに押さえ込むのではなく、実在性の領域に複数の世界の存立をあえて容認する。我々は複数の世界を現に生きている、というのが複数主義の眼目である。これは一体どういうことなのか、そもそもそんなことが(理論的に)可能なのか。